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2011年5月25日 (水) 02:40時点における版

エドゥアルド・フレイ・モンタルバ
Eduardo Frei Montalva


任期 1964年11月3日1970年11月3日

出生 1911年1月6日
 チリサンティアゴ・デ・チレ
死去 (1982-01-12) 1982年1月12日(70歳没)
政党 キリスト教民主党(PS)
署名

エドゥアルド・フレイ・モンタルバEduardo Frei Montalva, 1911年1月16日 - 1981年1月12日)は、チリ共和国大統領(第28代)。

経歴

1911年1月16日サンティアゴ・デ・チレに生まれる。ドイツ系スイス人の子孫である。

1933年に、弁護士となる。1938年に、チリの保守党(Partido Conservador)で、政治家として活動を始める。1949年、チリ上院議員に当選する。1957年キリスト教民主党Partido Demócrata Cristiano de Chile)の結成に参加する。1958年のチリ大統領選挙に出馬するものの、保守党のホルヘ・アレッサンドリ(Jorge Alessandri)とチリ社会党のサルバドール・アジェンデにおよばず、第三位の得票を得る。

1964年のチリ大統領選挙に、対立候補のサルバドール・アジェンデに勝ち、11月3日にチリ大統領となる。『自由の中の革命』を公約として、外国資本の元にあったチリの鉱山をチリの物とし、穏健な農地改革を進める。住宅建設を進め、資本家よりも一般大衆の利益をより優先する政策をとった。1970年11月3日、大統領職を任期満了で退き、大統領選挙に勝利したサルバドール・アジェンデが引き継ぐこととなる。

アジェンデ政権に対しては、批判的な立場をとり続ける。1973年3月、チリ上院議長に選ばれる。1973年9月11日の際のチリ・クーデターに際して、「支持」の立場をとっていたという情報もある[1]。しかし、アウグスト・ピノチェト軍事政権に対して批判の立場を強めた。元大統領の保守政治家として、独裁体制を終わらせる勢力の核として、期待されるに至る。

1982年1月12日、入院先の病院で死去する。腹膜炎が原因とされてきたが、遺族や民主勢力の調査活動の結果、毒殺された疑いが濃いことが分かり、2009年12月7日、軍関係者ら6人が逮捕される[2][1]

なお、息子のエドゥアルド・フレイ・ルイスタグレEduardo Frei Ruiz-Tagle)は、1994年5月から2000年5月まで、第32代チリ大統領に就任した。

脚注

外部リンク


公職
先代
ホルヘ・アレッサンドリ
チリの旗 チリ共和国大統領
第28代:1964 - 1970
次代
サルバドール・アジェンデ