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※この二つが先立っていることが絶対に自明なのではなく、この二つが与えられなければ、[[物自体]]が認識出来ない以上、[[純粋直観]]として、何も認識出来ないことを、[[カント]]は強調している。
※この二つが先立っていることが絶対に自明なのではなく、この二つが与えられなければ、[[物自体]]が認識出来ない以上、[[純粋直観]]として、何も認識出来ないことを、[[カント]]は強調している。
なお、この二つは自然に想像される、時間あるいは空間ではなく、形式的である。[[感覚]]的には太陽が地球を回っているように「感じられる」としても、そうではないという比喩を[[カント]]も援用していることから、ある新しい構成(この場合は経験、感覚等を[[捨象]]することにより、地球が太陽を周回しているという[[綜合的判断]]が得られる)の為に、それらは[[純粋直観]]に与えられる、という比喩表現を許されたい。この空間は、物理空間に先立つ=(アプリオリ)な空間である。[[純粋直観]]が不可能であれば[[ヒューム]]的懐疑に陥るという懸念にも留意されたい。
なお、この二つは自然に想像される、時間あるいは空間ではなく、形式的である。[[感覚]]的には太陽が地球を回っているように「感じられる」としても、そうではないという比喩を[[カント]]も援用していることから、ある新しい構成(この場合は経験、感覚等を[[捨象]]することにより、地球が太陽を周回しているという[[綜合的判断]]が得られる)の為に、それらは[[純粋直観]]に与えられる、という比喩表現を許されたい。この空間は、物理空間に先立つ=(アプリオリ)な空間である。[[純粋直観]]が不可能であれば[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]的懐疑に陥るという懸念にも留意されたい。


もっとも今日的な一般的用法としては、アプリオリとは、「演繹的証明の必要のない自明的な事柄」という意味で使われることが多い。
もっとも今日的な一般的用法としては、アプリオリとは、「演繹的証明の必要のない自明的な事柄」という意味で使われることが多い。

2010年10月31日 (日) 01:54時点における版

アプリオリとは、経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念。カントおよび新カント学派の用法。ラテン語のa prioriに由来する。

カントによれば時間と空間はアプリオリな概念である。なぜならこの二つは、あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念だからである。

※この二つが先立っていることが絶対に自明なのではなく、この二つが与えられなければ、物自体が認識出来ない以上、純粋直観として、何も認識出来ないことを、カントは強調している。 なお、この二つは自然に想像される、時間あるいは空間ではなく、形式的である。感覚的には太陽が地球を回っているように「感じられる」としても、そうではないという比喩をカントも援用していることから、ある新しい構成(この場合は経験、感覚等を捨象することにより、地球が太陽を周回しているという綜合的判断が得られる)の為に、それらは純粋直観に与えられる、という比喩表現を許されたい。この空間は、物理空間に先立つ=(アプリオリ)な空間である。純粋直観が不可能であればヒューム的懐疑に陥るという懸念にも留意されたい。

もっとも今日的な一般的用法としては、アプリオリとは、「演繹的証明の必要のない自明的な事柄」という意味で使われることが多い。

認識論において用いられる難解な言葉であり、アプリオリはアポステリオリの対語である。「先験的」「先天的」などと訳される場合があるが、どちらの訳もこの語の意味にあっていないと言われ、多くの場合「アプリオリ」とカタカナで書かれる。

アプリオリの具体的な意は、「私はこのことをアプリオリに知っている」は「私はこのことを知っているが、経験を通じて知ったのではない」と言うような具合である。アプリオリの意は非常に複雑であり、わかりにくいと言われる。


法学

法学上の文脈で用いる場合には、いわゆる「自明」ないしは「所与のもの」などの語義と同視して用いられることがあり、特に論証や立証なくして明らかな事項(明らかであるとして扱ってよい事項)、などの意として使われる。

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