「タンジュン・ピナン」の版間の差分
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2010年9月26日 (日) 06:51時点における版
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タンジョン・ピナン(Tanjung Pinang、または、Tanjungpinang)は、インドネシアのリアウ諸島における最大の都市であり首府である。人口は150,000人である。リアウ諸島の交易港である。ビンタン島に位置し、バタン、シンガポールやジョホールバルとフェリーやスピードボートで往来できる。
歴史
マラッカ王国が、ポルトガルにより陥落させられた後、スルタンマフムッドが、ビンタンに亡命し、ポルトガルに対抗する基地とした以降の500年にわたり、この島は政治の中心を担ってきた。
行政
タンジョン・ピナンは、ビンタン島の中で最大の都市であり、行政の中心である。また、インドネシア、リアウ諸島州の首府である。
後に、ビンタンは、マレーシアの南部にあるジョホール王国の首都となった。この都市は、常にマレー人の指導的役割を果たしてきた。300年前にマラッカ王国が果たしてきたように、ビンタンは、交易港であり、地元やヨーロッパ人、インド人、さらに華人を引きつけ、受け入れてきたのである。
インドネシアの国民的英雄であるラージャ・ハッジ・フィサビリラハは、1784年にオランダとの戦いの最中に死亡している。彼は、有名なマレー人の王で、タンジョン・ピナン沖のペニヤガット島に王宮を所持していた。
観光地
タンジョン・ピナンには、マレー音楽と舞踊を上演するセンターがある。このセンターは、定期的に催し物や他の企画を行っている。新しく仏教寺院が、タンジョン・ピナンの郊外のSenggarangに位置している。
ペニヤガット島
リアウ王国の遺跡として、王宮や王墓が残されている。その中には、マレー語最初の文法書を著したラージャ・アリ・ハッジの墓もある。マスジッド・ラヤは、王達の副モスクであったが現在でも使われている。世界遺産の候補とされている。[1]
ラージャ・ハッジ・フィサビリラハ記念碑
オランダとの戦いで1784年に死亡したラージャ・ハッジ・フィサビリラハ王は、国民英雄とされ、マレーの王の中でも有名であり、ペニヤガット島に王宮まで持っていた。この王を記念して28メートルの像が建てられていたが、残念なことに現在はこの像は存在していない。