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2010年5月28日 (金) 10:28時点における版
平林 正恒(ひらはやし まさつね、天文19年(1550年) - 元和8年2月18日(1622年3月29日))は戦国時代から江戸時代初期の武将。初め甲斐国武田氏家臣、武田氏滅亡後に越後国の上杉氏家臣となり、会津藩や米沢藩転封に従い、奉行を勤める。諱は恒忠、正恒。通称は与八郎、蔵人。
経歴
父は平林正家(肥後守)。武田氏家臣として信濃国更級郡平林城城主を勤めていたが、天正10年(1582年)に織田信長、徳川家康連合軍により天目山の戦いで武田氏が滅亡すると越後国に逃れて上杉氏に250石で仕える。その後、直江兼続に算勘を認められて1000石を給される。慶長3年(1598年)に白河小峰城に移り、5360石となり、同6年(1601年)には福島城二の丸に入り、伊達、信夫両郡の奉行となる。
慶長13年(1608年)に春日元忠が死去すると、その後を継いで郡代と奉行を兼ねた執政となり、直江の下で藩政諸般を統括した。
子孫
平林家は明治期まで、家格侍組分領家として続き重職につくが、宝暦7年(1757年)に二の丸奉行兼侍頭の平林正相が森平右衛門により罷免されたり、七家騒動で平林正在が上杉治憲と竹俣当綱による改革に対する反対派に組して蟄居処分を受けている。
参考文献
- 「三百藩家臣人名事典1」新人物往来社