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'''長尾 景長'''(ながお かげなが、[[文明_(日本)|文明]]元年([[1469年]])- [[大永]]8年[[1月15日_(旧暦)|1月15日]]([[享禄]]元年、[[1528年]][[2月5日]]))は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]初期の[[武将]]。[[山内上杉家]]の[[家宰]]を務めた他、[[画家]]としても知られている。[[長尾氏|足利長尾氏]]の[[長尾景人]]の次男で[[長尾定景_(足利長尾氏)|定景]]の弟。子に[[長尾憲長|憲長]]がいる。[[但馬国|但馬]][[国司|守]]。通称は新五郎。初名は房長あるいは房景。[[号 (称号)|号]]は亭泉斎。[[出家]]して禅香と名乗った。[[下野国]][[足利庄]][[勧農城]](現在の[[栃木県]][[足利市]])城主。
'''長尾 景長'''(ながお かげなが、[[文明_(日本)|文明]]元年([[1469年]])- [[大永]]8年[[1月15日_(旧暦)|1月15日]]([[享禄]]元年、[[1528年]][[2月5日]]))は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]初期の[[武将]]。[[山内上杉家]]の[[家宰]]を務めた他、[[画家]]としても知られている。[[長尾氏|足利長尾氏]]の[[長尾景人]]の次男で[[長尾定景_(足利長尾氏)|定景]]の弟。子に[[長尾憲長|憲長]]がいる。[[但馬国|但馬]][[国司|守]]。通称は新五郎。初名は房長あるいは房景。[[号 (称号)|号]]は亭泉斎。[[出家]]して禅香と名乗った。[[下野国]][[足利庄]][[勧農城]](現在の[[栃木県]][[足利市]])城主。


== 経歴 ==
幼くして父を亡くし、兄も病死した為、7歳で叔父の[[長尾房清]]の[[後見]]を受けながら足利長尾氏の[[家督]]を継いだ。[[長享]]元年([[1487年]])、房清が[[扇谷上杉家]]の[[上杉定正]]と通じたために山内上杉家の当主である[[関東管領]][[上杉顕定]]に勧農城を攻撃される。これが、[[上杉氏]]の内紛である[[長享の乱]]の開始となった。[[明応]]4年([[1495年]])、[[岩松尚純]]が[[横瀬成繁 (室町時代)|横瀬成繁]]に攻撃されるとこれを救う。同年[[足利高基]]の[[元服]]の儀の功によって但馬守を受領した。この頃から当主としての活動が本格化する。
幼くして父を亡くし、兄も病死した為、7歳で叔父の[[長尾房清]]の[[後見]]を受けながら足利長尾氏の[[家督]]を継いだ<ref>近年、[[落合厚志]]や[[黒田基樹]]は房清の受領名が足利長尾氏当主が代々受けた但馬守であったことを理由に景長が但馬守を受ける明応4年以前は房清が足利長尾氏当主であったとする説を唱えている。ただし、その前後を通じて同氏に家督を巡る内紛があった事実は確認できず、房清が当主であったとしても将来的には景長にその地位を譲ることを前提としたものであったと見られている(黒田基樹「足利長尾氏に関する基礎的考察」(所収:荒川善夫 他編『中世下野の権力と社会 中世東国論3』(岩田書院、2009年) ISBN 978-4-87294-561-4))。</ref>。[[長享]]元年([[1487年]])、房清が[[扇谷上杉家]]の[[上杉定正]]と通じたために山内上杉家の当主である[[関東管領]][[上杉顕定]]に勧農城を攻撃される。これが、[[上杉氏]]の内紛である[[長享の乱]]の開始となった。[[明応]]4年([[1495年]])、[[岩松尚純]]が[[横瀬成繁 (室町時代)|横瀬成繁]]に攻撃されるとこれを救う。同年[[足利高基]]の[[元服]]の儀の功によって但馬守を受領した。この頃から当主としての活動が本格化する。


[[永正]]元年([[1504年]])の[[立河原の戦い]]で房清(房清は既に没してその子とも)が戦死すると、ようやく当主として自立する事が出来た。永正7年([[1510年]])の上杉顕定の没後、関東管領と山内上杉家当主の座を巡って[[上杉憲房]]と[[上杉顕実]]が争ったときに[[横瀬景繁]]と共に憲房を擁立して顕実側の[[成田顕泰]]・[[長尾顕方]]と戦い、顕実の居城[[鉢形城]]を攻め落とした。憲房の勝利後、景長は顕実側の長尾顕方に替わって山内上杉家の家宰に任じられた([[永正の乱]])。
[[永正]]元年([[1504年]])の[[立河原の戦い]]で房清(房清は既に没してその子とも)が戦死すると、ようやく当主として自立する事が出来た。永正7年([[1510年]])の上杉顕定の没後、関東管領と山内上杉家当主の座を巡って[[上杉憲房]]と[[上杉顕実]]が争ったときに[[横瀬景繁]]と共に憲房を擁立して顕実側の[[成田顕泰]]・[[長尾顕方]]と戦い、顕実の居城[[鉢形城]]を攻め落とした。憲房の勝利後、景長は顕実側の長尾顕方に替わって山内上杉家の家宰に任じられた([[永正の乱]])。
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景長は画家としても優れており、彼が建立した[[長林寺]](栃木県足利市)には彼の自画像や山水図が遺されている。また、[[狩野正信]]とも親交があったとも言われている。
景長は画家としても優れており、彼が建立した[[長林寺]](栃木県足利市)には彼の自画像や山水図が遺されている。また、[[狩野正信]]とも親交があったとも言われている。


== 脚注 ==
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2010年5月15日 (土) 00:23時点における版

長尾 景長(ながお かげなが、文明元年(1469年)- 大永8年1月15日享禄元年、1528年2月5日))は、戦国時代初期の武将山内上杉家家宰を務めた他、画家としても知られている。足利長尾氏長尾景人の次男で定景の弟。子に憲長がいる。但馬。通称は新五郎。初名は房長あるいは房景。は亭泉斎。出家して禅香と名乗った。下野国足利庄勧農城(現在の栃木県足利市)城主。

経歴

幼くして父を亡くし、兄も病死した為、7歳で叔父の長尾房清後見を受けながら足利長尾氏の家督を継いだ[1]長享元年(1487年)、房清が扇谷上杉家上杉定正と通じたために山内上杉家の当主である関東管領上杉顕定に勧農城を攻撃される。これが、上杉氏の内紛である長享の乱の開始となった。明応4年(1495年)、岩松尚純横瀬成繁に攻撃されるとこれを救う。同年足利高基元服の儀の功によって但馬守を受領した。この頃から当主としての活動が本格化する。

永正元年(1504年)の立河原の戦いで房清(房清は既に没してその子とも)が戦死すると、ようやく当主として自立する事が出来た。永正7年(1510年)の上杉顕定の没後、関東管領と山内上杉家当主の座を巡って上杉憲房上杉顕実が争ったときに横瀬景繁と共に憲房を擁立して顕実側の成田顕泰長尾顕方と戦い、顕実の居城鉢形城を攻め落とした。憲房の勝利後、景長は顕実側の長尾顕方に替わって山内上杉家の家宰に任じられた(永正の乱)。

景長は画家としても優れており、彼が建立した長林寺(栃木県足利市)には彼の自画像や山水図が遺されている。また、狩野正信とも親交があったとも言われている。

脚注

  1. ^ 近年、落合厚志黒田基樹は房清の受領名が足利長尾氏当主が代々受けた但馬守であったことを理由に景長が但馬守を受ける明応4年以前は房清が足利長尾氏当主であったとする説を唱えている。ただし、その前後を通じて同氏に家督を巡る内紛があった事実は確認できず、房清が当主であったとしても将来的には景長にその地位を譲ることを前提としたものであったと見られている(黒田基樹「足利長尾氏に関する基礎的考察」(所収:荒川善夫 他編『中世下野の権力と社会 中世東国論3』(岩田書院、2009年) ISBN 978-4-87294-561-4))。