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[[オランダ]]の[[ヴィンテルスヴァイク]]に生まれる。[[ユトレヒト大学]]で医学を学ぶが、その後[[アムステルダム音楽院]]に進む。はじめはチェリストであったが、[[1932年]]に指揮者としてデビュー。[[1937年]]にユトレヒト市立管弦楽団([[ユトレヒト交響楽団]])の常任指揮者に就任する。[[1949年]]から[[1973年]]の長きにわたり[[ハーグ・レジデンティ管弦楽団]]の首席指揮者、音楽監督としてその育成に貢献した。また[[1967年]]から[[1970年]]まで[[メルボルン交響楽団]]、[[1971年]]から[[1978年]]まで[[シドニー交響楽団]]の首席指揮者をつとめている。滞在中の[[メルボルン]]近郊で交通事故により急死。[[コンサート・ホール・ソサエティ]]等に多くの音源を残し、特に[[ニキタ・マガロフ]]と協演した作品は評価が高い。 |
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2010年4月4日 (日) 18:10時点における版
クラシック音楽 |
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作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 ルネサンス - バロック 古典派 - ロマン派 近代 - 現代 |
楽器 |
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一覧 |
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ウィレム・ヴァン・オッテルロー (Willem van Otterloo, 1907年12月27日 - 1978年7月28日) はオランダの指揮者。作曲家、チェリストでもあった。
略歴
オランダのヴィンテルスヴァイクに生まれる。ユトレヒト大学で医学を学ぶが、その後アムステルダム音楽院に進む。はじめはチェリストであったが、1932年に指揮者としてデビュー。1937年にユトレヒト市立管弦楽団(ユトレヒト交響楽団)の常任指揮者に就任する。1949年から1973年の長きにわたりハーグ・レジデンティ管弦楽団の首席指揮者、音楽監督としてその育成に貢献した。また1967年から1970年までメルボルン交響楽団、1971年から1978年までシドニー交響楽団の首席指揮者をつとめている。滞在中のメルボルン近郊で交通事故により急死。コンサート・ホール・ソサエティ等に多くの音源を残し、特にニキタ・マガロフと協演した作品は評価が高い。