「ガッリエヌス」の版間の差分
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2010年3月25日 (木) 10:36時点における版
プブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌス(ラテン語: Publius Licinius Egnatius Gallienus, 218年頃 - 268年)は、軍人皇帝時代のローマ帝国の皇帝(共同皇帝としての在位:253年 - 260年、単独では260年 - 268年)。父親のウァレリアヌスと共に、エトルリアの血を引いていたという。
生涯
253年に父のウァレリアヌスと共に共同皇帝として即位し、ウァレリアヌスは帝国東部の戦線を、ガッリエヌスは帝国西部の戦線を担当することになった。
256年、ペルシア(サーサーン朝)皇帝シャープール1世が、ローマ帝国領カッパドキアに侵攻。ウァレリアヌス率いるローマ軍は、259年にシリア属州のアンティオキアに到着する。ここを前線基地として、ペルシアとの戦いが開始された。ところが、父である皇帝ウァレリアヌスが260年にエデッサの戦いに敗れてペルシアに捕らえられたことにより、共同皇帝から単独皇帝に登位。ローマ皇帝捕囚のニュースはローマ帝国の権威を失墜させ、マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムスらによるガリア帝国が出現した。
東方属州でもフルウィウス・マクリアヌス(en)らが皇帝を僭称した。一方、ガッリエヌスは当時通商都市の一つであったパルミラの実力者・セプティミウス・オダエナトゥスと結び、オダエナトゥスは軍隊を率いてペルシア軍の宿営地、アンティオキアに夜襲をかけてペルシア軍を敗走させ、エメサ(現:ホムス)で皇帝を僭称していたティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥスを討ち果たした。
しかし、帝国の権威失墜によりゴート族をはじめとする蛮族による帝国進入も激しくなる。また、オダエナトゥスはローマのために、さらに小アジアのゴート族を討伐に出かけてそれに成功して帰還したが、甥のマエオニウス(Maeonius)との諍いから、宴会の最中、彼に暗殺されてしまった。オダエナトゥスの妻・ゼノビアがマエオニウスを処刑し、幼少の息子ウァバラトゥスを後継者に据えてパルミラの実権を握ると、ゼノビアは今までのパルミラの方針を転換し、公然とローマに反旗を翻した。こうしてローマ帝国は、ガリア帝国・パルミラ王国による帝国三分割を許してしまう。
この事態に、皇帝ガッリエヌスは精力的に蛮族撃退に繰り出すが、ガリア帝国・パルミラは現状のまま放置することになった。蛮族対策のために騎兵部隊を軍の主力とし、ローマ軍、ひいてはローマ市民層の変質をもたらした。ポストゥムスやアウレオルスら皇帝を僭称する者達も相次ぎ、ローマ帝国の歴史においても屈指の国難の中、奮闘に奮闘を重ねたが結果が伴わず、クラウディウス・ゴティクスらのクーデターにより殺害された。
ガッリエヌスは当時の国難に対処するための下記のような対処を重ねたが、結果、危機はますます深刻化した。
その1つがライン川とドナウ川防衛線を繋げていたリーメス・ゲルマニクス(ゲルマニア防壁)の放棄である。当時防壁内に入り込んでいたアラマンニ族にその内部での居住を許し、その防衛を請け負わせようとした。そのために居住内建設資金という名目で、年貢金を支払うことまで受け入れた。当初は蛮族の侵入を阻止出来たものの、防壁の喪失はのちの時代に深く影響することになる。
また1つに、軍人と文官のキャリアを分離したことがある。元老院階級を筆頭とするエリート層に武官と文官との両方を経験させることで、総合的な視野と能力を有する人材を育成するというローマの伝統を失わせる結果となった。
彼はいくつかの詩も残しており、また哲学にも関心を抱き、哲学者プロティノスとも交流があった。
参考文献
- クリス・スカー 青柳正規監修、月村澄枝訳『ローマ皇帝歴代誌』、創元社、1998年、300頁。
- Bray,John.Gallienus :A study in reformist and sexual politics,us,wake field ,1999,p.404.
関連項目
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