「アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン」の版間の差分
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'''アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン'''('''Albrecht Wenzel Eusebius von Wallenstein''', '''Albrecht Václav Eusebius z Valdštejna''', [[1583年]][[9月24日]] [[ボヘミア]] - [[1634年]][[2月25日]] ボヘミア・[[エーガー]] Eger(現[[ヘプ]] Cheb))は、[[中世]]の[[三十年戦争]]期のボヘミア(ベーメン['''Böhmen'''])の[[傭兵]][[隊長]]である。もとの姓はヴァルトシュタイン(Waldstein)。 |
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[[1618年]]にボヘミア反乱が起こると[[神聖ローマ]]皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]に味方し、軍資金不足の皇帝に私兵を提供して皇帝軍総司令官に任命された。 |
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[[1623年]]に北ボヘミアの[[フリートラント]]侯に任じられる。 |
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陸上での戦争では[[デンマーク]]王[[クリスチャン4世 (デンマーク王)|クリスチャン4世]]などのプロテスタント諸侯に対し連戦連勝している。その間に免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立て、これが批判される一方、他の軍の略奪行為との兼ね合いから波紋を広げる。 |
陸上での戦争では[[デンマーク]]王[[クリスチャン4世 (デンマーク王)|クリスチャン4世]]などのプロテスタント諸侯に対し連戦連勝している。その間に免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立て、これが批判される一方、他の軍の略奪行為との兼ね合いから波紋を広げる。 |
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功績が認められて[[メクレンブルク]]公となるが、旧来の帝国諸侯の反感を |
功績が認められて[[メクレンブルク]]公となるが、旧来の帝国諸侯たちの反感を買い、皇帝の命で総司令官を解任された。 |
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その後、[[スウェーデン]]軍の侵入で後任の総司令官[[ティリー伯ヨハン・セルクラエス|ティリー伯]]が戦死し、窮地に陥ったフェルディナント2世の懇願を受け復 |
その後、[[スウェーデン]]軍の侵入で後任の総司令官[[ティリー伯ヨハン・セルクラエス|ティリー伯]]が戦死し、窮地に陥ったフェルディナント2世の懇願を受け復職した。このときに、[[選帝侯]]位を要求したとも言われる。 |
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しかし、かつてのように自ら鍛え上げた軍団ではなく、皇帝軍という既成の組織を指揮したこともあって精彩を欠き、[[1632年]]には[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]で[[スウェーデン国王]][[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ・アドルフ]]を戦死させながらも皇帝軍は敗走し、独自に講和を結ぼうとしたことから反逆の疑いをかけられ、皇帝軍将校に[[暗殺]]された。 |
しかし、かつてのように自ら鍛え上げた軍団ではなく、皇帝軍という既成の組織を指揮したこともあって精彩を欠き、[[1632年]]には[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]で[[スウェーデン国王]][[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ・アドルフ]]を戦死させながらも皇帝軍は敗走し、独自に講和を結ぼうとしたことから反逆の疑いをかけられ、エーガーの居城でで皇帝軍将校に[[暗殺]]された。齢51。 |
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選帝侯位を得た後は、ボヘミアの王位を狙っているものとも[[噂]]された。グスタフ・アドルフが居なくなったことで、ヴァレンシュタインの存在価値は急激に失い、裏切りの可能性から皇帝に危険視されたとも言われている。 |
選帝侯位を得た後は、ボヘミアの王位を狙っているものとも[[噂]]された。グスタフ・アドルフが居なくなったことで、ヴァレンシュタインの存在価値は急激に失い、裏切りの可能性から皇帝に危険視されたとも言われている。 |
2010年1月2日 (土) 09:35時点における版
アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン(Albrecht Wenzel Eusebius von Wallenstein, Albrecht Václav Eusebius z Valdštejna, 1583年9月24日 ボヘミア - 1634年2月25日 ボヘミア・エーガー Eger(現ヘプ Cheb))は、中世の三十年戦争期のボヘミア(ベーメン[Böhmen])の傭兵隊長である。もとの姓はヴァルトシュタイン(Waldstein)。
ボヘミアのドイツ系プロテスタントの小貴族の家に生まれるが、カトリックに改宗してイタリアのパドヴァ大学に遊学した。
帰国後に傭兵となる。
1618年にボヘミア反乱が起こると神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に味方し、軍資金不足の皇帝に私兵を提供して皇帝軍総司令官に任命された。
陸上での戦争ではデンマーク王クリスチャン4世などのプロテスタント諸侯に対し連戦連勝している。その間に免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立て、これが批判される一方、他の軍の略奪行為との兼ね合いから波紋を広げる。
功績が認められてメクレンブルク公となるが、旧来の帝国諸侯たちの反感を買い、皇帝の命で総司令官を解任された。
その後、スウェーデン軍の侵入で後任の総司令官ティリー伯が戦死し、窮地に陥ったフェルディナント2世の懇願を受け復職した。このときに、選帝侯位を要求したとも言われる。
しかし、かつてのように自ら鍛え上げた軍団ではなく、皇帝軍という既成の組織を指揮したこともあって精彩を欠き、1632年にはリュッツェンの戦いでスウェーデン国王グスタフ・アドルフを戦死させながらも皇帝軍は敗走し、独自に講和を結ぼうとしたことから反逆の疑いをかけられ、エーガーの居城でで皇帝軍将校に暗殺された。齢51。
選帝侯位を得た後は、ボヘミアの王位を狙っているものとも噂された。グスタフ・アドルフが居なくなったことで、ヴァレンシュタインの存在価値は急激に失い、裏切りの可能性から皇帝に危険視されたとも言われている。
彼を題材にシラーが書き上げた戯曲「ヴァレンシュタイン」がある。