「澤村宗十郎 (7代目)」の版間の差分

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'''七代目 澤村宗十郎'''(しちだいめ さわむら そうじゅうろう、[[1875年]](明治8年)[[12月30日]] - [[1949年]](昭和24年)[[3月2日]])は[[歌舞伎役者]]。女形、立役。本名は'''澤村福蔵'''。[[屋号]]は紀伊國屋。俳名に高賀。[[東京都]]出身。一説には[[東本願寺]]法主の隠し子とも言う。[[澤村訥升 (2代目)|二代目澤村訥升]]の養子。
'''七代目 澤村宗十郎'''(しちだいめ さわむら そうじゅうろう、[[1875年]](明治8年)[[12月30日]] - [[1949年]](昭和24年)[[3月2日]])は[[歌舞伎役者]]。女形、立役。本名は'''澤村福蔵'''。[[屋号]]は紀伊國屋。俳名に高賀。[[東京都]]出身。一説には[[東本願寺]]法主の隠し子とも言う。[[澤村訥升 (2代目)|二代目澤村訥升]]の養子。


[[1881年]](明治14年)澤村源平で初舞台。[[1892年]](明治25年)大阪で[[片岡仁左衛門 (11代目)|十一代目片岡仁左衛門]]の引きたてを受け、三代目[[澤村訥升]]を襲名する。[[1911年]](明治44年)歌舞伎座で『高野山』の苅萱道心役で七代目[[澤村宗十郎]]を襲名。女形、立役を得意とした。江戸和事というべき古風な芸で、独自の台詞回しとともに観客の好悪が激しかった。ために、戦前期までは、近代歌舞伎の流れから外れて不遇をかこっていた。戦後、その芸風が珍重され、'''宗十郎歌舞伎'''の名で再評価が高まる。その矢先、[[姫路市|姫路]]の巡業先で『[[仮名手本忠臣蔵]]』の勘平を演じている最中に倒れた。
[[1881年]](明治14年)澤村源平で初舞台。[[1892年]](明治25年)大阪で[[片岡仁左衛門 (11代目)|十一代目片岡仁左衛門]]の引きたてを受け、三代目[[澤村訥升]]を襲名する。[[1911年]](明治44年)歌舞伎座で『高野山』の苅萱道心役で七代目[[澤村宗十郎]]を襲名。女形、立役を得意とした。江戸和事というべき古風な芸で、独自の台詞回しとともに観客の好悪が激しかった。ために、戦前期までは、近代歌舞伎の流れから外れて不遇をかこっていた。戦後、その芸風が珍重され、'''宗十郎歌舞伎'''の名で再評価が高まる。その矢先、[[姫路市|姫路]]の巡業先で『[[仮名手本忠臣蔵]]』の勘平を演じている最中に倒れた。その最後は、揚幕の中で「財布。財布。」と六段目の勘平の使う小道具の財布のことを口走りながら逝くという壮絶なものであった。





2009年10月7日 (水) 13:58時点における版

七代目 澤村宗十郎(しちだいめ さわむら そうじゅうろう、1875年(明治8年)12月30日 - 1949年(昭和24年)3月2日)は歌舞伎役者。女形、立役。本名は澤村福蔵屋号は紀伊國屋。俳名に高賀。東京都出身。一説には東本願寺法主の隠し子とも言う。二代目澤村訥升の養子。

1881年(明治14年)澤村源平で初舞台。1892年(明治25年)大阪で十一代目片岡仁左衛門の引きたてを受け、三代目澤村訥升を襲名する。1911年(明治44年)歌舞伎座で『高野山』の苅萱道心役で七代目澤村宗十郎を襲名。女形、立役を得意とした。江戸和事というべき古風な芸で、独自の台詞回しとともに観客の好悪が激しかった。ために、戦前期までは、近代歌舞伎の流れから外れて不遇をかこっていた。戦後、その芸風が珍重され、宗十郎歌舞伎の名で再評価が高まる。その矢先、姫路の巡業先で『仮名手本忠臣蔵』の勘平を演じている最中に倒れた。その最後は、揚幕の中で「財布。財布。」と六段目の勘平の使う小道具の財布のことを口走りながら逝くという壮絶なものであった。


当り役は『神霊矢口渡』のお舟、梅の由兵衛、『助六』の白酒売、鈴木主水、苅萱道心、『明烏』の時次郎、『伽羅先代萩』の頼兼、『蘭蝶』など。宗十郎代々の家の芸に自らの当り役を加えた高賀十種を定めた。実子は五代目助高屋高助五代目澤村田之助八代目澤村宗十郎がいる。

墓碑は、田島山十一ヶ寺の受用院に所在。