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2009年8月3日 (月) 02:31時点における版

プリンス・ヨルミー・ジョンソン(Prence Yormie Johnson、YormieはYEBUOとも言う。1952年7月6日 - )は、西アフリカリベリアの反政府組織リベリア国民愛国戦線 (NPFL) の元軍事司令官で、INPELの元指導者。リベリアの独裁的な大統領サミュエル・ドウを捕まえ処刑した人物でもある。

ジョンソンは1952年リベリアのニンバ州でギオ族の両親との間で生まれた。1971年に陸軍に入隊し、1974年には中尉に昇格。アメリカでの訓練を経て、リベリア憲兵隊長まで昇格するが自動車事故の負傷により1977年に除隊した。陸軍在住時はサミュエル・ドウ軍曹の上官だった。1980年にドウ軍曹が軍事クーデター起こし政権を握る。1985年に起きたクーデター失敗ではコートジボワールへ亡命している。

1987年チャールズ・テーラーによるドウ政権打倒を狙ったリベリア国民愛国戦線 (NPFL) に参加し、リビアゲリラ訓練を受けた。1989年にNPFLの軍事司令官としてテーラーと共にリベリアに侵入してリベリア内戦を起こした。しかし、テーラーと政治的な理念などの違いなどで対立し、テーラーから処刑容疑をかけられ同胞のギオ族の兵士らと共に1990年2月にNPFL離脱し、INPELを結成した。9月9日サミュエル・ドウ大統領をモンロビアで捕らえ拷問の末に処刑した。ジョンソンは親アメリカ及び親ECOMOGだった。そのため、リビア政府と親密な関係を築くテーラーに不満があり、アメリカによるリベリア内戦の介入を強く求めていた。

1991年には独立民主党 (IDP) を結成したが、INPEL内部での残虐行為が明らかになり、他の勢力から殺人罪の罪などで圧力を受け次第に弱まり、1992年にINPELを解散し、ジョンソンはナイジェリアへ亡命した(ジョンソンによるとナイジェリア軍に強制連行されたらしい)。その後、リベリア国内の不安定な情勢から完全に孤立をし、1997年にナイジェリアのラゴスキリスト教聖職者になる事を明らかにした。