「ヴェリーキエ・ルーキ」の版間の差分

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[[File:Krepostluki2.jpg|thumb|250px|旧ヴェリーキエ・ルーキ要塞の敷地内にある第二次世界大戦記念碑]]
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[[File:VLuki_pamatnikMatrosovu.jpg|thumb|250px|[[ソ連邦英雄]]アレクサンデル・マトロソフの記念碑]]
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[[File:Coat_of_Arms_of_Velikie_Luki_(Pskov_oblast).png|thumb|100px|市の紋章]]
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
ヴェリーキエ・ルーキの名は[[1166年]]の年代記に初出する。[[1211年]]に[[ノヴゴロド公国]]が城が建設し、[[プスコフ]]や[[ノヴゴロド]]の南を守る戦略的に重要な都市となった。[[1478年]]、[[イヴァン3世]]の統治する[[モスクワ大公国]]に併合された。[[リューリク朝]]断絶後の[[大動乱]]の時代、この街は僭称者[[偽ドミトリー1世]]と[[偽ドミトリー2世]]の支配下に置かれ、[[1611年]]の戦いで完全破壊されたが[[1619年]]に再建された。
ヴェリーキエ・ルーキの名は[[1166年]]の年代記に初出する。[[1211年]]に[[ノヴゴロド公国]]が[[クレムリ|クレムリン]]を建設し、[[プスコフ]]や[[ノヴゴロド]]の南を守る戦略的に重要な都市となった。[[1478年]]、[[イヴァン3世]]の統治する[[モスクワ大公国]]に併合された。[[リューリク朝]]断絶後の[[大動乱]]の時代、この街は僭称者[[偽ドミトリー1世]]と[[偽ドミトリー2世]]の支配下に置かれ、[[1611年]]の戦いで完全破壊されたが[[1619年]]に再建された。


[[17世紀]]にはロシアはヴェリーキエ・ルーキを拠点に南の[[リトアニア大公国]]への侵入を繰り返し[[ポラツク]](ポロツク)や[[ヴィチェプスク]](ヴィテブスク)などを征服したが、[[ポーランド・リトアニア連合]]の反撃によりヴェリーキエ・ルーキはリトアニア領となり、[[1772年]]の[[ポーランド分割]]で再びロシア領となった。[[20世紀]]初頭に[[モスクワ]]と[[リガ]]を結ぶ鉄道が建設され、[[サンクトペテルブルク]]と[[オデッサ]]を結ぶ鉄道も西郊を通ることから、鉄道路線の集中する街としても繁栄した。
[[17世紀]]にはロシアはヴェリーキエ・ルーキを拠点に南の[[リトアニア大公国]]への侵入を繰り返し[[ポラツク]](ポロツク)や[[ヴィチェプスク]](ヴィテブスク)などを征服したが、[[ポーランド・リトアニア連合]]の反撃によりヴェリーキエ・ルーキはリトアニア領となり、[[1772年]]の[[ポーランド分割]]で再びロシア領となった。[[20世紀]]初頭に[[モスクワ]]と[[リガ]]を結ぶ鉄道が建設され、[[サンクトペテルブルク]]と[[オデッサ]]を結ぶ鉄道も西郊を通ることから、鉄道路線の集中する街としても繁栄した。

2009年2月24日 (火) 14:35時点における版

旧ヴェリーキエ・ルーキクレムリンの敷地内にある第二次世界大戦記念碑
ファイル:VLuki pamatnikMatrosovu.jpg
ソ連邦英雄アレクサンデル・マトロソフの記念碑
市の紋章

ヴェリーキエ・ルーキ(ヴェリキエ・ルキ、ロシア語:Вели́кие Лу́киラテン文字表記の例:Velikiye LukiVelikie Luki)は、ロシア連邦プスコフ州南部の町。蛇行しながら流れるロヴァチ川の河畔にある。街の名は、「大きな蛇行」[1]という意味。人口は104,979人(2002年国勢調査)で、プスコフ州では2番目に大きな都市であり、ヴェリーキエ・ルーキ空港もある。南にはロシアとベラルーシの国境がある。

歴史

ヴェリーキエ・ルーキの名は1166年の年代記に初出する。1211年ノヴゴロド公国クレムリンを建設し、プスコフノヴゴロドの南を守る戦略的に重要な都市となった。1478年イヴァン3世の統治するモスクワ大公国に併合された。リューリク朝断絶後の大動乱の時代、この街は僭称者偽ドミトリー1世偽ドミトリー2世の支配下に置かれ、1611年の戦いで完全破壊されたが1619年に再建された。

17世紀にはロシアはヴェリーキエ・ルーキを拠点に南のリトアニア大公国への侵入を繰り返しポラツク(ポロツク)やヴィチェプスク(ヴィテブスク)などを征服したが、ポーランド・リトアニア連合の反撃によりヴェリーキエ・ルーキはリトアニア領となり、1772年ポーランド分割で再びロシア領となった。20世紀初頭にモスクワリガを結ぶ鉄道が建設され、サンクトペテルブルクオデッサを結ぶ鉄道も西郊を通ることから、鉄道路線の集中する街としても繁栄した。

第二次世界大戦では、1941年1942年、ロヴァチ川や東西南北への鉄道が走るヴェリーキエ・ルーキ周辺はドイツ軍とソ連軍の激戦地となった。1942年末のヴェリーキエ・ルーキの戦いでは、街に立て篭もる7,000人ほどのドイツ軍部隊がソ連軍に包囲された。数ヶ月間にわたりスターリングラード攻防戦にも匹敵する激しい攻囲戦・市街戦が行われたが、包囲された部隊を救援する作戦にも失敗したドイツ軍は1943年1月に降伏した。この戦闘で街並みは完全に破壊された。

ヴェリーキエ・ルーキはソ連邦元帥コンスタンチン・ロコソフスキーの出生地とされる。またソ連邦英雄となった兵士アレクサンデル・マトロソフはこの地に眠っている。この近くの村で生まれた音楽家モデスト・ムソルグスキーの記念館は町、からほど近い湖のそばに建っている。

脚注

  1. ^ Лу́ки」は「川の湾曲部」を意味する「лука́」の複数形で、「川が蛇行している地帯」を意味する。また、同様に「Лу́ки」は「」を意味する「лук」の複数形でもあるので、町の紋章や旗には複数の弓の絵が描かれている。

外部リンク