「エリザベス・ムーア」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Hhst (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
Hhst (会話 | 投稿記録)
m リンク追加
1行目: 1行目:
'''エリザベス・ムーア'''('''Elisabeth Moore''', [[1876年]][[3月5日]] - [[1959年]][[1月22日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニューヨーク]]市[[ブルックリン]]出身の女子[[テニス]]選手。[[19世紀]]の終わりから[[20世紀]]初頭の時期、全米選手権(現在の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]])で女子部門の黎明期に活躍した選手のひとりである。ムーアは全米選手権の女子シングルスで4勝、女子ダブルス2勝、混合ダブルス2勝を挙げ、通算「8勝」を記録した。フルネームは ''Elisabeth Holmes Moore'' (エリザベス・ホームズ・ムーア)というが、愛称の「ベシー・ムーア」(Bessie Moore)の名前で呼ばれることも多かった。右利きの選手。
'''エリザベス・ムーア'''('''Elisabeth Moore''', [[1876年]][[3月5日]] - [[1959年]][[1月22日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニューヨーク]]市[[ブルックリン]]出身の女子[[テニス]]選手。[[19世紀]]の終わりから[[20世紀]]初頭の時期、全米選手権(現在の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]])で女子部門の黎明期に活躍した選手のひとりである。ムーアは全米選手権の女子シングルスで4勝、女子ダブルス2勝、混合ダブルス2勝を挙げ、通算「8勝」を記録した。フルネームは ''Elisabeth Holmes Moore'' (エリザベス・ホームズ・ムーア)というが、愛称の「ベシー・ムーア」(Bessie Moore)の名前で呼ばれることも多かった。右利きの選手。


エリザベス・ムーアは[[1892年]]、16歳の時に[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]の女子シングルスと混合ダブルスの2部門で初めて決勝に進出した。最初期の時代は、男子シングルス・男子ダブルス・女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの5部門がそれぞれ個別の名称を持ち、大会会場も別々のテニスクラブで開かれていた。女子シングルスは[[1887年]]に「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship)という名前で始まり、混合ダブルスは[[1892年]]から「全米混合ダブルス選手権」(U.S. Mixed Doubles Championship)という名称で公式競技に加えられた。ムーアは女子シングルスの第6回大会と、混合ダブルスの第1回大会で決勝に進んだが、この時はどちらも準優勝に終わった。初期の全米女子シングルス選手権では、[[1891年]]から決勝戦が最大5セット・マッチで行われるようになり、ムーアは初めての決勝戦で[[マーベル・カーヒル]]([[アイルランド]])に 7-5, 3-6, 4-6, 6-4, 2-6 の5セット・マッチで敗れた。16歳6ヶ月での女子シングルス決勝進出は、[[1978年]]の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]で[[パム・シュライバー]]が「16歳2ヶ月」で準優勝するまで、86年間全米女子の最年少決勝進出記録であった。
エリザベス・ムーアは[[1892年全米テニス選手権|1892年]]、16歳の時に[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]の女子シングルスと混合ダブルスの2部門で初めて決勝に進出した。最初期の時代は、男子シングルス・男子ダブルス・女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの5部門がそれぞれ個別の名称を持ち、大会会場も別々のテニスクラブで開かれていた。女子シングルスは[[1887年全米テニス選手権|1887年]]に「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship)という名前で始まり、女子ダブルスは[[1889年全米テニス選手権|1889年]]から「全米女子ダブルス選手権」(U.S. Women's National Doubles Championship)、混合ダブルスは[[1892年全米テニス選手権|1892年]]から「全米混合ダブルス選手権」(U.S. Mixed Doubles Championship)という名称で公式競技に加えられた。ムーアは女子シングルスの第6回大会と、混合ダブルスの第1回大会で決勝に進んだが、この時はどちらも準優勝に終わった。初期の全米女子シングルス選手権では、[[1891年全米テニス選手権|1891年]]から決勝戦が最大5セット・マッチで行われるようになり、ムーアは初めての決勝戦で[[マーベル・カーヒル]]([[アイルランド]])に 7-5, 3-6, 4-6, 6-4, 2-6 の5セット・マッチで敗れた。16歳6ヶ月での女子シングルス決勝進出は、[[1978年]]の[[1978年全米オープンテニス|全米オープン]]で[[パム・シュライバー]]が「16歳2ヶ月」で準優勝するまで、86年間全米女子の最年少決勝進出記録であった。


それから4年後、エリザベス・ムーアは20歳で女子シングルス・女子ダブルスの2部門に初優勝を飾った。女子シングルス決勝では[[ジュリエット・アトキンソン]]([[1873年]] - [[1944年]])を 6-4, 4-6, 6-2, 6-2 の5セット・マッチで下し、女子ダブルスではそのアトキンソンとペアを組んで優勝している。[[1897年]]の女子シングルス決勝は、2年連続でムーアとアトキンソンの対決になったが、今度はアトキンソンが 6-3, 6-3, 4-6, 3-6, 6-3 でムーアに雪辱した。[[1901年]]、ムーアは女子シングルス決勝で[[マートル・マカティアー]]を 6-4, 3-6, 7-5, 2-6, 6-2 の5セット・マッチで破り、4年ぶり2度目の女子シングルス優勝を飾った。しかし、この後[[全米テニス協会]]の運営委員たちの間で「女子選手に最大5セット・マッチはきつすぎるのではないか」という危惧の声が出るようになり、[[1901年]]を最後に女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門から「最大5セット・マッチ」が廃止された。[[1902年]]以後は最大3セット・マッチで行われるようになり、現在に至っている。ムーアがプレーした最初期の全米選手権は、このような大会運営ルールの変更も多かった。
それから4年後の[[1896年全米テニス選手権|1896年]]、エリザベス・ムーアは20歳で女子シングルス・女子ダブルスの2部門に初優勝を飾った。女子シングルス決勝では[[ジュリエット・アトキンソン]]([[1873年]] - [[1944年]])を 6-4, 4-6, 6-2, 6-2 の5セット・マッチで下し、女子ダブルスではそのアトキンソンとペアを組んで優勝している。[[1897年全米テニス選手権|1897年]]の女子シングルス決勝は、2年連続でムーアとアトキンソンの対決になったが、今度はアトキンソンが 6-3, 6-3, 4-6, 3-6, 6-3 でムーアに雪辱した。[[1901年全米テニス選手権|1901年]]、ムーアは女子シングルス決勝で[[マートル・マカティアー]]を 6-4, 3-6, 7-5, 2-6, 6-2 の5セット・マッチで破り、4年ぶり2度目の女子シングルス優勝を飾った。しかし、この後[[全米テニス協会]]の運営委員たちの間で「女子選手に最大5セット・マッチはきつすぎるのではないか」という危惧の声が出るようになり、1901年を最後に女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門から「最大5セット・マッチ」が廃止された。[[1902年全米テニス選手権|1902年]]以後は最大3セット・マッチで行われるようになり、現在に至っている。ムーアがプレーした最初期の全米選手権は、このような大会運営ルールの変更も多かった。


女子競技がすべて最大3セット・マッチに落ち着いた後、[[1903年]]にムーアは自身2度目の女子シングルス・女子ダブルス2部門制覇を達成した。[[1904年]]、ムーアは女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに決勝進出を決めたが、3部門とも[[メイ・サットン]]([[1886年]] - [[1975年]])と決勝対決をした。ムーアが当時18歳のサットンに勝ったのは、ウィリー・グラントとペアを組んだ混合ダブルスのみで、女子シングルスと女子ダブルスではサットンに敗れてしまう。[[1905年]]は女子シングルスと混合ダブルスの2部門で決勝に進み、女子シングルス決勝では[[ヘレン・ホーマンズ]]を 6-4, 5-7, 6-1 で破り、ここで最後の全米選手権タイトルを獲得した。最後の混合ダブルス決勝では、ムーアはエドワード・デューハーストとペアを組んだが、クラレンス・ホバート&オーガスタ・シュルツ(この2人は結婚した夫婦)の組に 2-6, 4-6 で敗れた。こうしてエリザベス・ムーアは、黎明期の全米選手権に大きな足跡を残した。
女子競技がすべて最大3セット・マッチに落ち着いた後、[[1903年全米テニス選手権|1903年]]にムーアは自身2度目の女子シングルス・女子ダブルス2部門制覇を達成した。[[1904年全米テニス選手権|1904年]]、ムーアは女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに決勝進出を決めたが、3部門とも[[メイ・サットン]]([[1886年]] - [[1975年]])と決勝対決をした。ムーアが当時18歳のサットンに勝ったのは、ウィリー・グラントとペアを組んだ混合ダブルスのみで、女子シングルスと女子ダブルスではサットンに敗れてしまう。[[1905年全米テニス選手権|1905年]]は女子シングルスと混合ダブルスの2部門で決勝に進み、女子シングルス決勝では[[ヘレン・ホーマンズ]]を 6-4, 5-7, 6-1 で破り、ここで最後の全米選手権タイトルを獲得した。最後の混合ダブルス決勝では、ムーアはエドワード・デューハーストとペアを組んだが、クラレンス・ホバート&オーガスタ・シュルツ(この2人は結婚した夫婦)の組に 2-6, 4-6 で敗れた。こうしてエリザベス・ムーアは、黎明期の全米選手権に大きな足跡を残した。


全米選手権を退いてから半世紀後、エリザベス・ムーアは[[1959年]][[1月22日]]に[[フロリダ州]]スタークで82歳の生涯を閉じた。[[1971年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
全米選手権を退いてから半世紀後、エリザベス・ムーアは[[1959年]][[1月22日]]に[[フロリダ州]]スタークで82歳の生涯を閉じた。[[1971年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
12行目: 12行目:
* 女子ダブルス:2勝(1896年、1903年) [準優勝3度:1895年、1901年、1904年]
* 女子ダブルス:2勝(1896年、1903年) [準優勝3度:1895年、1901年、1904年]
* 混合ダブルス:2勝(1902年、1904年) [準優勝2度:1892年、1905年]
* 混合ダブルス:2勝(1902年、1904年) [準優勝2度:1892年、1905年]
== 関連項目 ==
* [[テニス]]
* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.tennisfame.com/famer.aspx?pgID=867&hof_id=210 国際テニス殿堂(英語)]
* [http://www.tennisfame.com/famer.aspx?pgID=867&hof_id=210 国際テニス殿堂(英語)]

[[Category:アメリカ合衆国のテニス選手|むうあ えりさへす]]
[[Category:1876年生|むうあ えりさへす]]
{{DEFAULTSORT:むうあ えりさへす}}
[[Category:1959年没|むうあ えりさへす]]
[[Category:アメリカ合衆国のテニス選手]]
[[Category:1876年生]]
[[Category:1959年没]]
[[de:Elisabeth Moore]]
[[de:Elisabeth Moore]]
[[en:Elisabeth Moore]]
[[en:Elisabeth Moore]]

2008年7月18日 (金) 12:33時点における版

エリザベス・ムーアElisabeth Moore, 1876年3月5日 - 1959年1月22日)は、アメリカニューヨークブルックリン出身の女子テニス選手。19世紀の終わりから20世紀初頭の時期、全米選手権(現在の全米オープン)で女子部門の黎明期に活躍した選手のひとりである。ムーアは全米選手権の女子シングルスで4勝、女子ダブルス2勝、混合ダブルス2勝を挙げ、通算「8勝」を記録した。フルネームは Elisabeth Holmes Moore (エリザベス・ホームズ・ムーア)というが、愛称の「ベシー・ムーア」(Bessie Moore)の名前で呼ばれることも多かった。右利きの選手。

エリザベス・ムーアは1892年、16歳の時に全米選手権の女子シングルスと混合ダブルスの2部門で初めて決勝に進出した。最初期の時代は、男子シングルス・男子ダブルス・女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの5部門がそれぞれ個別の名称を持ち、大会会場も別々のテニスクラブで開かれていた。女子シングルスは1887年に「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship)という名前で始まり、女子ダブルスは1889年から「全米女子ダブルス選手権」(U.S. Women's National Doubles Championship)、混合ダブルスは1892年から「全米混合ダブルス選手権」(U.S. Mixed Doubles Championship)という名称で公式競技に加えられた。ムーアは女子シングルスの第6回大会と、混合ダブルスの第1回大会で決勝に進んだが、この時はどちらも準優勝に終わった。初期の全米女子シングルス選手権では、1891年から決勝戦が最大5セット・マッチで行われるようになり、ムーアは初めての決勝戦でマーベル・カーヒルアイルランド)に 7-5, 3-6, 4-6, 6-4, 2-6 の5セット・マッチで敗れた。16歳6ヶ月での女子シングルス決勝進出は、1978年全米オープンパム・シュライバーが「16歳2ヶ月」で準優勝するまで、86年間全米女子の最年少決勝進出記録であった。

それから4年後の1896年、エリザベス・ムーアは20歳で女子シングルス・女子ダブルスの2部門に初優勝を飾った。女子シングルス決勝ではジュリエット・アトキンソン1873年 - 1944年)を 6-4, 4-6, 6-2, 6-2 の5セット・マッチで下し、女子ダブルスではそのアトキンソンとペアを組んで優勝している。1897年の女子シングルス決勝は、2年連続でムーアとアトキンソンの対決になったが、今度はアトキンソンが 6-3, 6-3, 4-6, 3-6, 6-3 でムーアに雪辱した。1901年、ムーアは女子シングルス決勝でマートル・マカティアーを 6-4, 3-6, 7-5, 2-6, 6-2 の5セット・マッチで破り、4年ぶり2度目の女子シングルス優勝を飾った。しかし、この後全米テニス協会の運営委員たちの間で「女子選手に最大5セット・マッチはきつすぎるのではないか」という危惧の声が出るようになり、1901年を最後に女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門から「最大5セット・マッチ」が廃止された。1902年以後は最大3セット・マッチで行われるようになり、現在に至っている。ムーアがプレーした最初期の全米選手権は、このような大会運営ルールの変更も多かった。

女子競技がすべて最大3セット・マッチに落ち着いた後、1903年にムーアは自身2度目の女子シングルス・女子ダブルス2部門制覇を達成した。1904年、ムーアは女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに決勝進出を決めたが、3部門ともメイ・サットン1886年 - 1975年)と決勝対決をした。ムーアが当時18歳のサットンに勝ったのは、ウィリー・グラントとペアを組んだ混合ダブルスのみで、女子シングルスと女子ダブルスではサットンに敗れてしまう。1905年は女子シングルスと混合ダブルスの2部門で決勝に進み、女子シングルス決勝ではヘレン・ホーマンズを 6-4, 5-7, 6-1 で破り、ここで最後の全米選手権タイトルを獲得した。最後の混合ダブルス決勝では、ムーアはエドワード・デューハーストとペアを組んだが、クラレンス・ホバート&オーガスタ・シュルツ(この2人は結婚した夫婦)の組に 2-6, 4-6 で敗れた。こうしてエリザベス・ムーアは、黎明期の全米選手権に大きな足跡を残した。

全米選手権を退いてから半世紀後、エリザベス・ムーアは1959年1月22日フロリダ州スタークで82歳の生涯を閉じた。1971年国際テニス殿堂入りを果たしている。

全米選手権の成績

  • 女子シングルス:4勝(1896年、1901年、1903年、1905年) [準優勝4度:1892年、1897年、1902年、1904年]
  • 女子ダブルス:2勝(1896年、1903年) [準優勝3度:1895年、1901年、1904年]
  • 混合ダブルス:2勝(1902年、1904年) [準優勝2度:1892年、1905年]

外部リンク