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ヴェリーキエ・ルーキの名は[[1166年]]の年代記に初出する。[[1211年]]に[[ノヴゴロド公国]]が城が建設し、[[プスコフ]]や[[ノヴゴロド]]の南を守る戦略的に重要な都市となった。[[1478年]]、[[イヴァン3世]]の統治する[[モスクワ大公国]]に併合された。[[リューリク朝]]断絶後の[[大動乱]]の時代、この街は僭称者[[偽ドミトリー1世]]と[[偽ドミトリー2世]]の支配下に置かれ、[[1611年]]の戦いで完全破壊されたが[[1619年]]に再建された。
ヴェリーキエ・ルーキの名は[[1166年]]の年代記に初出する。[[1211年]]に[[ノヴゴロド公国]]が城が建設し、[[プスコフ]]や[[ノヴゴロド]]の南を守る戦略的に重要な都市となった。[[1478年]]、[[イヴァン3世]]の統治する[[モスクワ大公国]]に併合された。[[リューリク朝]]断絶後の[[大動乱]]の時代、この街は僭称者[[偽ドミトリー1世]]と[[偽ドミトリー2世]]の支配下に置かれ、[[1611年]]の戦いで完全破壊されたが[[1619年]]に再建された。


[[17世紀]]にはロシアはヴェリーキエ・ルーキを拠点に南の[[リトアニア大公国]]への侵入を繰り返し[[ポラツク]](ポロツク)や[[ヴィチェプスク]](ヴィテブスク)などを征服したが、[[ポーランド・リトアニア連合]]の反撃によりヴェリーキエ・ルーキはリトアニア領となり、[[1772年]]の[[ポーランド分割]]で再びロシア領となった。[[20世紀]]初頭に[[モスクワ]]と[[リガ]]を結ぶ鉄道が建設されことから、鉄道路線の集中する街としても繁栄した。
[[17世紀]]にはロシアはヴェリーキエ・ルーキを拠点に南の[[リトアニア大公国]]への侵入を繰り返し[[ポラツク]](ポロツク)や[[ヴィチェプスク]](ヴィテブスク)などを征服したが、[[ポーランド・リトアニア連合]]の反撃によりヴェリーキエ・ルーキはリトアニア領となり、[[1772年]]の[[ポーランド分割]]で再びロシア領となった。[[20世紀]]初頭に[[モスクワ]]と[[リガ]]を結ぶ鉄道が建設され、[[サンクトペテルブルク]]と[[オデッサ]]を結ぶ鉄道も西郊を通ることから、鉄道路線の集中する街としても繁栄した。


[[第二次世界大戦]]では、[[1941年]]と[[1942年]]、ロヴァチ川や鉄道が走るヴェリーキエ・ルーキ周辺はドイツ軍とソ連軍の激戦地となった。1942年末のヴェリーキエ・ルーキの戦いでは、街に立て篭もる7,000人ほどのドイツ軍部隊がソ連軍に包囲され数ヶ月間にわた戦いの末[[1943年]]1月に降伏した。この戦闘で街並みは完全に破壊された。
[[第二次世界大戦]]では、[[1941年]]と[[1942年]]、ロヴァチ川や東西南北への鉄道が走るヴェリーキエ・ルーキ周辺はドイツ軍とソ連軍の激戦地となった。1942年末の[[ヴェリーキエ・ルーキの戦い]]では、街に立て篭もる7,000人ほどのドイツ軍部隊がソ連軍に包囲された。数ヶ月間にわたり[[スターリングラード攻防]]にも匹敵する激し攻囲戦・市街戦が行われたが、包囲された部隊を救援する作戦にも失敗したドイツ軍は[[1943年]]1月に降伏した。この戦闘で街並みは完全に破壊された。


ヴェリーキエ・ルーキは[[ソ連邦元帥]][[コンスタンチン・ロコソフスキー]]の出生地とされる。また[[ソ連邦英雄]]となった兵士アレクサンデル・マトロソフはこの地に眠っている。音楽家[[モデスト・ムソルグスキー]]の記念館は町からほど近い湖のそばに建っている。
ヴェリーキエ・ルーキは[[ソ連邦元帥]][[コンスタンチン・ロコソフスキー]]の出生地とされる。また[[ソ連邦英雄]]となった兵士アレクサンデル・マトロソフはこの地に眠っている。音楽家[[モデスト・ムソルグスキー]]の記念館は町からほど近い湖のそばに建っている。

2008年6月27日 (金) 00:11時点における版

市の紋章
旧ヴェリーキエ・ルーキ要塞の敷地内にある第二次世界大戦記念碑
ファイル:VLuki pamatnikMatrosovu.jpg
ソ連邦英雄アレクサンデル・マトロソフの記念碑

ヴェリーキエ・ルーキロシア語:Вели́кие Лу́ки;ラテン文字表記: Velikiye Luki / Velikie Luki)はロシアプスコフ州南部の町。蛇行しながら流れるロヴァチ川の河畔にある。街の名は、「大きな蛇行」を意味する。人口は104,979人(2002年国勢調査)で、プスコフ州では2番目に大きな都市でありヴェリーキエ・ルーキ空港もある。南にはロシアとベラルーシの国境がある。

ヴェリーキエ・ルーキの名は1166年の年代記に初出する。1211年ノヴゴロド公国が城が建設し、プスコフノヴゴロドの南を守る戦略的に重要な都市となった。1478年イヴァン3世の統治するモスクワ大公国に併合された。リューリク朝断絶後の大動乱の時代、この街は僭称者偽ドミトリー1世偽ドミトリー2世の支配下に置かれ、1611年の戦いで完全破壊されたが1619年に再建された。

17世紀にはロシアはヴェリーキエ・ルーキを拠点に南のリトアニア大公国への侵入を繰り返しポラツク(ポロツク)やヴィチェプスク(ヴィテブスク)などを征服したが、ポーランド・リトアニア連合の反撃によりヴェリーキエ・ルーキはリトアニア領となり、1772年ポーランド分割で再びロシア領となった。20世紀初頭にモスクワリガを結ぶ鉄道が建設され、サンクトペテルブルクオデッサを結ぶ鉄道も西郊を通ることから、鉄道路線の集中する街としても繁栄した。

第二次世界大戦では、1941年1942年、ロヴァチ川や東西南北への鉄道が走るヴェリーキエ・ルーキ周辺はドイツ軍とソ連軍の激戦地となった。1942年末のヴェリーキエ・ルーキの戦いでは、街に立て篭もる7,000人ほどのドイツ軍部隊がソ連軍に包囲された。数ヶ月間にわたりスターリングラード攻防戦にも匹敵する激しい攻囲戦・市街戦が行われたが、包囲された部隊を救援する作戦にも失敗したドイツ軍は1943年1月に降伏した。この戦闘で街並みは完全に破壊された。

ヴェリーキエ・ルーキはソ連邦元帥コンスタンチン・ロコソフスキーの出生地とされる。またソ連邦英雄となった兵士アレクサンデル・マトロソフはこの地に眠っている。音楽家モデスト・ムソルグスキーの記念館は町からほど近い湖のそばに建っている。

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