「山中幸満」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
+Cat、Sty調整
2行目: 2行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[長禄]]元年([[1457年]])、父・幸久が兄の[[尼子清定]]により幽閉され、54歳で病死した。これにより幸満が後を継いだ。
[[長禄]]元年([[1457年]])、父・幸久が兄の[[尼子清定]]により幽閉され、54歳で病死した。これにより幸満が後を継いだ。尼子の当主清定とまだ対立していたものの仕える事を許された


家督を継いだ後のことは、ほとんど不明である。しかし子の[[山中勝重]]がまだ若い為、[[月山富田城]]奪取戦に参加したと思われる。
家督を継いだ後のことは、ほとんど不明である。しかし子の[[山中勝重]]がまだ若い為、[[月山富田城]]奪取戦に参加したと思われる。その戦の後、当主[[尼子経久]]は[[富田城]]に入城し、幸満と勝重を家老に任じた


{{People-substub}}
{{People-substub}}

2008年4月2日 (水) 03:46時点における版

山中 幸満(やまなか ゆきみつ、生没年不詳)は戦国大名尼子氏の家臣。曾孫は尼子十勇士の筆頭、山中鹿之介山中氏の祖、山中幸久の子。

経歴

長禄元年(1457年)、父・幸久が兄の尼子清定により幽閉され、54歳で病死した。これにより幸満が後を継いだ。尼子の当主清定とまだ対立していたものの仕える事を許された。

家督を継いだ後のことは、ほとんど不明である。しかし子の山中勝重がまだ若い為、月山富田城奪取戦に参加したと思われる。その戦の後、当主尼子経久富田城に入城し、幸満と勝重を家老に任じた。