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初代[[モイミール]]の死後、846年に王位についた。モイミールが[[カトリック]]を受容する姿勢をみせたのに対して、ラスチスラフは[[東フランク王国]]との対抗上、[[第一次ブルガリア帝国|ブルガリア]]、[[ビザンツ帝国]]などと接近した。また、カトリック化を通じて東フランク王国に従属することを懸念して、ビザンツ帝国に宣教師の派遣を依頼した。これによって派遣されたのが[[キュリロス]]・[[メトディオス]]の兄弟であり、王国内における[[正教会|ギリシャ正教]]の浸透を図った。この際に布教の必要性から[[グラゴル文字]]が作成された。 |
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東フランク王国と結んだ甥の[[スヴァトプルク]]によって失脚に追い込まれた。 |
東フランク王国と結んだ甥の[[スヴァトプルク]]によって失脚に追い込まれた。 |
2008年2月4日 (月) 18:48時点における版
ラスチスラフ(Rastislav、?-870)は、モラヴィア王国の第2代君主。ロスティスラフとも表記する。
初代モイミールの死後、846年に王位についた。モイミールがカトリックを受容する姿勢をみせたのに対して、ラスチスラフは東フランク王国との対抗上、ブルガリア、ビザンツ帝国などと接近した。また、カトリック化を通じて東フランク王国に従属することを懸念して、ビザンツ帝国に宣教師の派遣を依頼した。これによって派遣されたのがキュリロス・メトディオスの兄弟であり、王国内におけるギリシャ正教の浸透を図った。この際に布教の必要性からグラゴル文字が作成された。
東フランク王国と結んだ甥のスヴァトプルクによって失脚に追い込まれた。
参考文献
- 南塚信吾編 『新版世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』 山川出版社、1999年