「エルネスト・ギロー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Su-no-G (会話 | 投稿記録)
m -db 加筆されたため
1行目: 1行目:
{{db|定義未満}}

'''エルネスト・ギロー'''('''Ernest Guiraud''', [[1837年]][[6月23日]] - [[1892年]][[5月6日]])は[[フランス]]の[[作曲家]]。
'''エルネスト・ギロー'''('''Ernest Guiraud''', [[1837年]][[6月23日]] - [[1892年]][[5月6日]])は[[フランス]]の[[作曲家]]。


11行目: 9行目:
[[1892年]]、[[パリ]]にして死去。
[[1892年]]、[[パリ]]にして死去。


{{classic-stub|きろえるねすと}}
{{classic-stub|きろ えるねすと}}


[[Category:フランスの作曲家|きろえるねすと]]
[[Category:フランスの作曲家|きろ えるねすと]]
[[Category:1837年生|きろえるねすと]]
[[Category:1837年生|きろ えるねすと]]
[[Category:1892年没|きろえるねすと]]
[[Category:1892年没|きろ えるねすと]]

2007年8月30日 (木) 13:19時点における版

エルネスト・ギローErnest Guiraud, 1837年6月23日 - 1892年5月6日)はフランス作曲家

1837年に、アメリカニューオーリンズで生まれる。1852年にフランスに移住し、パリ音楽院にて学ぶ。1859年にはローマ賞を受賞(ちなみに、彼の父も1927年にローマ賞を受賞している)。

1876年にパリ音楽院の教授に就任し、クロード・ドビュッシーポール・デュカスなどを指導した。

また、ジョルジュ・ビゼーと親交があり、ビゼーの死後「アルルの女」第二組曲を完成させたのもギローである。

1892年パリにして死去。