「アンスバッハ侯領」の版間の差分
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アンスバッハ侯領は、[[ニュルンベルク]][[城伯]]領の "untergebirgisch"(山の麓)部分にあたる。"obergebirgisch"(山の上)部分と併せてホーエンツォレルン家のフランケン地方における本拠地である城伯領を形成する。[[1415年]]あるいは[[1417年]]にニュルンベルク城伯[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ6世]]は、それまで歴代有していた所領に加えて、世襲の辺境伯領を手に入れ、ホーエンツォレルン家は、これにより獲得した[[辺境伯]]の称号を用いることとなった。[[1427年]]に城伯の政庁であった城伯の城の[[帝国自由都市]][[ニュルンベルク]]への売却が完了した。フランケンの領土は、これより、辺境伯領として定着し、これが後に2つの辺境伯領として(当初は一時的なものであったのだが)分割されることとなる。2つの独立した[[領邦]]への最終的な分割は[[1486年]]の[[アルブレヒト・アヒレス]]の死後に行われた。フランケンの支配地域を2人の若い息子で分割する事を取り決めた[[1473年]]公布の "Dispositio Achillea" に従ったものだ。分割地域への割り当ては、くじ引きにより決定した。[[フリードリヒ5世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|フリードリヒ5世]]は、後のアンスバッハ侯領となる "untergebirgisch" 地方が割り当てられた。弟のジークムントが獲得したもう一つの地域は後に[[クルムバッハ侯領]]となった。 |
アンスバッハ侯領は、[[ニュルンベルク]][[城伯]]領の "untergebirgisch"(山の麓)部分にあたる。"obergebirgisch"(山の上)部分と併せてホーエンツォレルン家のフランケン地方における本拠地である城伯領を形成する。[[1415年]]あるいは[[1417年]]にニュルンベルク城伯[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ6世]]は、それまで歴代有していた所領に加えて、世襲の辺境伯領を手に入れ、ホーエンツォレルン家は、これにより獲得した[[辺境伯]]の称号を用いることとなった。[[1427年]]に城伯の政庁であった城伯の城の[[帝国自由都市]][[ニュルンベルク]]への売却が完了した。フランケンの領土は、これより、辺境伯領として定着し、これが後に2つの辺境伯領として(当初は一時的なものであったのだが)分割されることとなる。2つの独立した[[領邦]]への最終的な分割は[[1486年]]の[[アルブレヒト・アヒレス]]の死後に行われた。フランケンの支配地域を2人の若い息子で分割する事を取り決めた[[1473年]]公布の "Dispositio Achillea" に従ったものだ。分割地域への割り当ては、くじ引きにより決定した。[[フリードリヒ5世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|フリードリヒ5世]]は、後のアンスバッハ侯領となる "untergebirgisch" 地方が割り当てられた。弟のジークムントが獲得したもう一つの地域は後に[[クルムバッハ侯領]]となった。 |
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アンスバッハ侯領は、クルムバッハ侯領(1604年以降はバイロイト侯領)とたびたび[[同君連合]]の形で統治された(1495年-1515年、1557年-1603年、1769年-1791年)が、[[神聖ローマ帝国|帝国]]の終焉まで国法上は独立した領邦であった。[[1791年]]に |
アンスバッハ侯領は、クルムバッハ侯領(1604年以降はバイロイト侯領)とたびたび[[同君連合]]の形で統治された(1495年-1515年、1557年-1603年、1769年-1791年)が、[[神聖ローマ帝国|帝国]]の終焉まで国法上は独立した領邦であった。[[1791年]]にバイロイト侯領とともに[[プロイセン王国]]に編入されると、アンスバッハ=バイロイトとして、[[カール・アウグスト・フォン・ハーデルベルク]]に包括管理されることとなった。フランス革命戦争でのプロイセンの敗北後はフランスに割譲され、とりあえずは軍政管理下に置かれたが、[[1810年]]に最終的に[[バイエルン王国]]領となった。 |
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=== ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯 === |
=== ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯 === |
2007年6月4日 (月) 07:46時点における版
アンスバッハ侯領 (Fürstentum Ansbach)、すなわちブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯領は、フランケン帝国クライスに属した帝国直轄地で、ホーエンツォレルン家の傍流が治めた。本家筋にあたるベルリンのブランデンブルク選帝侯家(1701年以降は王家)と緊密な関係にありながらも、1792年まで独立した領邦を保った。この侯領の統治者の政治的な活動範囲は、もっぱらフランケン帝国クライス内とその周辺地域に留まった。
歴史
成立と経緯
アンスバッハ侯領は、ニュルンベルク城伯領の "untergebirgisch"(山の麓)部分にあたる。"obergebirgisch"(山の上)部分と併せてホーエンツォレルン家のフランケン地方における本拠地である城伯領を形成する。1415年あるいは1417年にニュルンベルク城伯フリードリヒ6世は、それまで歴代有していた所領に加えて、世襲の辺境伯領を手に入れ、ホーエンツォレルン家は、これにより獲得した辺境伯の称号を用いることとなった。1427年に城伯の政庁であった城伯の城の帝国自由都市ニュルンベルクへの売却が完了した。フランケンの領土は、これより、辺境伯領として定着し、これが後に2つの辺境伯領として(当初は一時的なものであったのだが)分割されることとなる。2つの独立した領邦への最終的な分割は1486年のアルブレヒト・アヒレスの死後に行われた。フランケンの支配地域を2人の若い息子で分割する事を取り決めた1473年公布の "Dispositio Achillea" に従ったものだ。分割地域への割り当ては、くじ引きにより決定した。フリードリヒ5世は、後のアンスバッハ侯領となる "untergebirgisch" 地方が割り当てられた。弟のジークムントが獲得したもう一つの地域は後にクルムバッハ侯領となった。
アンスバッハ侯領は、クルムバッハ侯領(1604年以降はバイロイト侯領)とたびたび同君連合の形で統治された(1495年-1515年、1557年-1603年、1769年-1791年)が、帝国の終焉まで国法上は独立した領邦であった。1791年にバイロイト侯領とともにプロイセン王国に編入されると、アンスバッハ=バイロイトとして、カール・アウグスト・フォン・ハーデルベルクに包括管理されることとなった。フランス革命戦争でのプロイセンの敗北後はフランスに割譲され、とりあえずは軍政管理下に置かれたが、1810年に最終的にバイエルン王国領となった。
ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯
歴代アンスバッハ侯領の領主を列記する。( )内は、統治期間。
- フリードリヒ (1398-1440) ニュルンベルク城伯フリードリヒ5世の息子。1398年に父の侯領を弟と分配した。1427年まではニュルンベルク城伯フリードリヒ6世を称した。1412年からブランデンブルク辺境伯フリードリヒ1世となり、1420年からは、クルムバッハ辺境伯を兼ねた。
- アルブレヒト・アヒレス (1440-1486) 1457年からクルムバッハ辺境伯を兼ね、1471年からはブランデンブルク選帝侯。
- フリードリヒ5世 (1486-1515)
- ゲオルク敬虔伯 (1515-1543) 1527年からクルムバッハ侯領をも統治した。
- ゲオルク・フリードリヒ (1543-1603) 1557年からクルムバッハ辺境伯、1578年からプロイセン摂政を兼ねた。
- ヨアヒム・エルンスト (1603-1625)
- フリードリヒ (1625-1634)
- アルブレヒト (1634-1667)
- ヨハン・フリードリヒ (1667-1686)
- クリスティアン・アルブレヒト (1686-1692)
- ゲオルク・フリードリヒ2世 (1692-1703)
- ヴィルヘルム・フリードリヒ (1703-1723)
- カール・ヴィルヘルム・フリードリヒ (1723-1757)
- カール・アレクサンダー (1757-1791) 1769年からブランデンブルク=バイロイト辺境伯を兼ねる。
参考文献
- M. Spindler, A. Kraus: Geschichte Frankens bis zum Ausgang des 18. Jahrhunderts, München 1997. ISBN 3-406-39451-5
- Gerhard Taddey: Lexikon der deutschen Geschichte, Stuttgart 1998. ISBN 3-520-81303-3
- M. Spindler, G. Diepolder: Bayerischer Geschichtsatlas, München 1969.
(以上は、ドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成時に直接参照してはおりません。)