「伊達宗倫 (登米伊達家)」の版間の差分

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2007年5月25日 (金) 07:01時点における版

  1. 伊達宗倫 1640 - 1670 伊達忠宗の五男で登米伊達氏当主、以下で詳述。
  2. 伊達宗倫 1872 - 1892 男爵伊達宗城の子で宇和島分家当主。

伊達 宗倫(だて むねのり、寛永17年(1640年) - 寛文10年(1670年))は江戸時代伊達氏の一族。登米伊達氏当主。通称 式部。

兄の五郎吉が早世した為その跡を継いだ。

1665年安芸家の伊達宗重と領土争いを起こした。兵部家の伊達宗勝の裁きにより宗倫に有利な条件で採決が下されたが、その頃に宗倫は死去。宗倫の死後、これを恨みに思った宗重は幕府方へ訴えるために江戸に向かう。大老酒井忠清の屋敷で伊達騒動が起き、宗重は兵部派の原田宗輔に殺害された。

系譜

先代
白石五郎吉
登米伊達氏
第4代
次代
伊達村直