「提岩里教会事件」の版間の差分
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'''提岩里事件'''('''ていがんりじけん''')は、日本の植民地統治下の[[朝鮮]]で[[三・一独立運動]]中に起きた事件。30人程の住民が軍隊によって虐殺された。 |
'''提岩里事件'''('''ていがんりじけん''')は、[[1919年]][[4月15日]]日本の植民地統治下の[[朝鮮]][[京畿道]]水原郡(現在の[[華城市]])で[[三・一独立運動]]中に起きた事件。30人程の住民が軍隊によって虐殺された。 |
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2007年5月7日 (月) 01:52時点における版
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提岩里事件(ていがんりじけん)は、1919年4月15日日本の植民地統治下の朝鮮京畿道水原郡(現在の華城市)で三・一独立運動中に起きた事件。30人程の住民が軍隊によって虐殺された。
概要
事件当時の日本の公式文書では、 「憲兵隊が提岩里の教会に、小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男達20数名を集めて取調べをしていた。そのとき、その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして襲いかかってきたのを犯人だと即断して殺害してしまった。これをきっかけに教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、殆ど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した」とされていた。
しかし2007年に発見された、当時の朝鮮軍司令官、宇都宮太郎の日記によれば、事件は日本兵が30人ほどの住民を教会に閉じこめたあと殺害、放火したもので、その「事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども」それでは「虐殺、放火を自認することと為り、帝国の立場は甚しく不利益」となるという判断から、幹部と協議した結果「抵抗したるを以て殺戮したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜十二時散会す」。とあり、住民の抵抗は存在せず、火災は軍による放火であったことがわかった。関与した中尉の処分は30日間重謹慎処分とされた。
外部リンク
- 4月における騒乱の概要(朝鮮憲兵隊司令部編「朝鮮三・一独立騒擾事件」の口語訳)(京畿道郡部の欄に当該事件が掲載、但し本文とは内容に隔たりがある)