出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
11行目: |
11行目: |
|
[[Category:内藤氏|きよなか]] |
|
[[Category:内藤氏|きよなか]] |
|
[[Category:戦国武将|ないとうきよなか]] |
|
[[Category:戦国武将|ないとうきよなか]] |
|
{{生没年|ないとうきよなか|1501年|1564年}}
|
|
[[Category:1501年生|ないとうきよなか]] |
|
|
[[Category:1564年没|ないとうきよなか]] |
2007年2月26日 (月) 04:45時点における版
内藤 清長(ないとう きよなが、文亀1年(1501年)‐永禄7年8月12日(1564年9月17日))は、戦国時代の武将。父は内藤右京進「義清」。通称は弥次右衛門。
来歴・人物
三河の内藤氏は藤原秀郷または藤原道長の末裔を称する内藤氏の一派であると自称するが、具体的な事跡が明らかになるのは清長の父の「義清」の代からである。清長は松平清康、松平広忠に仕え、天文11年(1542年)織田勢が上野城(愛知県豊田市)を攻めた際に、甥の内藤正成ら一族と共に防戦し、数十人の織田勢を討ち取ったという(「寛政譜」新訂13巻183項)。
- 注 生没年は「藩翰譜」に拠る。遠江国二俣城において64歳で亡くなったという。「寛政譜」では、二俣城を守備して武田勢と戦い、某年8月12日にこの地で卒したとしている。
実子は内藤家長。また内藤信成の養父である。法名は「幽鑑」。墓所は愛知県安城市姫小川町姫150の誓願寺。