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'''レジナルド・ドハティー'''('''Reginald Doherty''', フルネーム:レジナルド・フランク・ドハティー ''Reginald Frank Doherty'', [[1872年]][[10月14日]] - [[1910年]][[12月29日]])は、[[イングランド]]・[[ウィンブルドン]]出身の男子[[テニス]]選手。3歳年下の弟[[ローレンス・ドハティー]]とともに「ドハティー兄弟」(Doherty Brothers)として活躍した。レジナルドは“Reggie”(レジー)という愛称で呼ばれ、大柄な兄であったことから“Big Do”(ビッグ・ドー)とも呼ばれた。
'''レジナルド・ドハティー'''('''Reginald Doherty''', フルネーム:レジナルド・フランク・ドハティー ''Reginald Frank Doherty'', [[1872年]][[10月14日]] - [[1910年]][[12月29日]])は、[[イングランド]]・[[ウィンブルドン]]出身の男子[[テニス]]選手。3歳年下の弟[[ローレンス・ドハティー]]とともに「ドハティー兄弟」(Doherty Brothers)として活躍した。レジナルドは“Reggie”(レジー)という愛称で呼ばれ、大柄な兄であったことから“Big Do”(ビッグ・ドー)とも呼ばれた。


レジナルドは[[1896年]]、24歳の時から[[ウィンブルドン選手権]]に出場し始める。[[1896年]]度のダブルスで準優勝した時は、パートナーは弟のローレンスではなく、ハロルド・ニスベット(Harold Nisbet)であった。レジナルドとニスベットの組は、男子ダブルス決勝でハーバート・バデリーとウィルフレッド・バデリー(Herbert Baddeley, Wilfred Baddeley)の「バデリー兄弟」(Baddeley brothers)組に敗れた。翌[[1897年]]から[[1900年]]まで、レジナルド・ドハティーはウィンブルドン選手権のシングルスに大会「4連覇」を達成する。ダブルスでも弟のローレンスとペアを組み、「バデリー兄弟」に代わって「ドハティー兄弟」の時代が始まった。ドハティー兄弟のダブルスは、[[1897年]]から[[1906年]]まで「10年連続」ウィンブルドン選手権の男子ダブルス決勝に進み、[[1902年]]と[[1906年]]の2度敗れたのみで、通算「8勝」を記録した。後に弟のローレンスが[[1902年]]から[[1906年]]までウィンブルドン選手権のシングルス「5連覇」を達成し、ドハティー兄弟は「兄弟2人でウィンブルドンのシングルス9勝」を樹立した兄弟テニス選手として、テニス競技の初期に名前を刻んだ。
レジナルドは[[1896年]]、24歳の時から[[ウィンブルドン選手権]]に出場し始める。[[1896年]]度のダブルスで準優勝した時は、パートナーは弟のローレンスではなく、ハロルド・ニスベット(Harold Nisbet)であった。レジナルドとニスベットの組は、男子ダブルス決勝で[[ハーバート・バデリー]][[ウィルフレッド・バデリー]]の「バデリー兄弟」(Baddeley brothers)組に敗れた。翌[[1897年]]から[[1900年]]まで、レジナルド・ドハティーはウィンブルドン選手権のシングルスに大会「4連覇」を達成する。ダブルスでも弟のローレンスとペアを組み、「バデリー兄弟」に代わって「ドハティー兄弟」の時代が始まった。ドハティー兄弟のダブルスは、[[1897年]]から[[1906年]]まで「10年連続」ウィンブルドン選手権の男子ダブルス決勝に進み、[[1902年]]と[[1906年]]の2度敗れたのみで、通算「8勝」を記録した。後に弟のローレンスが[[1902年]]から[[1906年]]までウィンブルドン選手権のシングルス「5連覇」を達成し、ドハティー兄弟は「兄弟2人でウィンブルドンのシングルス9勝」を樹立した兄弟テニス選手として、テニス競技の初期に名前を刻んだ。


ドハティー兄弟はウィンブルドン選手権のみならず、海外遠征にも積極的であった。[[1900年]]の[[パリオリンピック (1900年)|パリ五輪]]では、兄弟で男子ダブルスの金メダルを獲得し、レジナルドは[[シャーロット・クーパー]]と組んだ混合ダブルスの金メダルも獲得した。[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]にも遠征し、ダブルスでは[[1902年]]と[[1903年]]に2連覇を達成したが、レジナルドはシングルスで[[1902年]]の準優勝1度に終わった。レジナルドは[[1908年]]の[[ロンドンオリンピック (1908年)|ロンドン五輪]]にも出場し、地元勢としてダブルスの金メダルを獲得した。2度目のダブルス金メダルの時は、パートナーはローレンスではなく、ジョージ・ヒルヤード([[ブランチ・ビングリー]]の夫)と組んでいる。
ドハティー兄弟はウィンブルドン選手権のみならず、海外遠征にも積極的であった。[[1900年]]の[[パリオリンピック (1900年)|パリ五輪]]では、兄弟で男子ダブルスの金メダルを獲得し、レジナルドは[[シャーロット・クーパー]]と組んだ混合ダブルスの金メダルも獲得した。[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]にも遠征し、ダブルスでは[[1902年]]と[[1903年]]に2連覇を達成したが、レジナルドはシングルスで[[1902年]]の準優勝1度に終わった。レジナルドは[[1908年]]の[[ロンドンオリンピック (1908年)|ロンドン五輪]]にも出場し、地元勢としてダブルスの金メダルを獲得した。2度目のダブルス金メダルの時は、パートナーはローレンスではなく、ジョージ・ヒルヤード([[ブランチ・ビングリー]]の夫)と組んでいる。
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2007年1月24日 (水) 21:16時点における版

オリンピック
テニス
1900 男子ダブルス
1900 混合ダブルス
1908 男子ダブルス

レジナルド・ドハティーReginald Doherty, フルネーム:レジナルド・フランク・ドハティー Reginald Frank Doherty, 1872年10月14日 - 1910年12月29日)は、イングランドウィンブルドン出身の男子テニス選手。3歳年下の弟ローレンス・ドハティーとともに「ドハティー兄弟」(Doherty Brothers)として活躍した。レジナルドは“Reggie”(レジー)という愛称で呼ばれ、大柄な兄であったことから“Big Do”(ビッグ・ドー)とも呼ばれた。

レジナルドは1896年、24歳の時からウィンブルドン選手権に出場し始める。1896年度のダブルスで準優勝した時は、パートナーは弟のローレンスではなく、ハロルド・ニスベット(Harold Nisbet)であった。レジナルドとニスベットの組は、男子ダブルス決勝でハーバート・バデリーウィルフレッド・バデリーの「バデリー兄弟」(Baddeley brothers)組に敗れた。翌1897年から1900年まで、レジナルド・ドハティーはウィンブルドン選手権のシングルスに大会「4連覇」を達成する。ダブルスでも弟のローレンスとペアを組み、「バデリー兄弟」に代わって「ドハティー兄弟」の時代が始まった。ドハティー兄弟のダブルスは、1897年から1906年まで「10年連続」ウィンブルドン選手権の男子ダブルス決勝に進み、1902年1906年の2度敗れたのみで、通算「8勝」を記録した。後に弟のローレンスが1902年から1906年までウィンブルドン選手権のシングルス「5連覇」を達成し、ドハティー兄弟は「兄弟2人でウィンブルドンのシングルス9勝」を樹立した兄弟テニス選手として、テニス競技の初期に名前を刻んだ。

ドハティー兄弟はウィンブルドン選手権のみならず、海外遠征にも積極的であった。1900年パリ五輪では、兄弟で男子ダブルスの金メダルを獲得し、レジナルドはシャーロット・クーパーと組んだ混合ダブルスの金メダルも獲得した。全米選手権にも遠征し、ダブルスでは1902年1903年に2連覇を達成したが、レジナルドはシングルスで1902年の準優勝1度に終わった。レジナルドは1908年ロンドン五輪にも出場し、地元勢としてダブルスの金メダルを獲得した。2度目のダブルス金メダルの時は、パートナーはローレンスではなく、ジョージ・ヒルヤード(ブランチ・ビングリーの夫)と組んでいる。

ドハティー兄弟は2人とも若くして早逝し、兄のレジナルドはロンドン五輪のダブルス金メダルからわずか2年後、1910年12月29日に38歳の若さで死去した。1980年、兄弟は2人揃って国際テニス殿堂入りを果たしている。

主な成績

シングルス4連覇(1897年-1900年) [1901年にオールカマーズ・ファイナルで敗れ、準優勝]
ダブルス8勝(1897年-1901年、1903年-1905年) [優勝はすべてローレンスとのペア。準優勝3度:1896年、1902年、1906年]

関連項目

外部リンク