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朦朧体

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朦朧体(もうろうたい)または、縹緲体(ひょうびょうたい)は、明治時代に確立された没線彩画の描絵手法。

横山大観「霊峰飛鶴」(1958年)

概要

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菱田春草「猫梅」(1906年)をトリミングしたもの

岡倉覚三(天心)の指導の下、横山大観菱田春草等によって試みられた没線描法である。洋画の外光派に影響され、東洋画の伝統的な線描技法を用いず、色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した。絵の具をつけず水で濡らしただけの水刷毛を用いて画絹を湿らせ、そこに絵の具を置き、空刷毛で広げる技法、すべての絵の具に胡粉を混ぜて使う技法、東洋画の伝統である余白を残さず、画絹を色彩で埋め尽くす手法などが用いられた[1]

名称の由来

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日本画の新しい表現の試みであったが、明瞭な輪郭をもたないなどと理解されず、評論家からは悪意をもって呼ばれた。

影響

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西洋絵画の浪漫主義的風潮を背景とした造形と正面から対峙し、日本画に近代化と革新をもたらした。

朦朧体によって生じる混濁した暗い色彩は、評論家から「幽霊画」と酷評されていた。この弱点を克服すべく大観と春草は、欧米外遊の際、発色の良い西洋絵具を持ち帰り、没線彩画描法を考案した。菱田春草の《落葉》や《黒き猫》。

菱田春草「落葉」1909年 菱田春草「落葉」1909年
菱田春草「落葉」1909年
横山大観「群青富士」1917年~1918年 横山大観「群青富士」1917年~1918年
横山大観「群青富士」1917年~1918年

横山大観の《流橙》や《群青富士》等、その後の傑作へと繋がる明瞭な色彩表現を可能にし、大観と春草の試みはようやく肯定的な評価を得るようになる。

欧米においては,西洋画家のジェームズ・マクニール・ホイッスラー〔James McNeill Whistler〕(1834-1903)の「ノクターン」シリーズになぞらえて評価された[2]

作品例

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横山大観[3]

菱田春草[7]

菱田春草『菊慈童』[8]
  • 《蘇李訣別》明治34年(1901) 個人蔵
  • 《王昭君》明治35年(1902) 善寶寺
  • 《霊昭女(端妍)》明治35年(1902) 飯田市美術博物館蔵[9]

脚注

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  1. ^ 高階秀爾『日本近代美術史論』(講談社学術文庫)、講談社、1990、pp.260 - 261
  2. ^ 田邉咲智 2020, p. 82.
  3. ^ 古田亮; 鶴見香織; 勝山滋 (2018年5月21日). もっと知りたい横山大観 (アート・ビギナーズ・コレクション). 東京美術 
  4. ^ 雰囲気のかたち”. Sfumart. 2024年5月9日閲覧。
  5. ^ 福岡市美術館”. www.fukuoka-art-museum.jp. 2024年5月9日閲覧。
  6. ^ [ID:430] 月下牧童 : 作品情報 | 収蔵品データベース | 滋賀県立美術館”. 滋賀県立美術館 - 収蔵品データベース. 2024年5月9日閲覧。
  7. ^ 鶴見香織; 尾崎正明 (2013年6月3日). もっと知りたい菱田春草―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション). 東京美術 
  8. ^ 絹本著色菊慈童 - 飯田市ホームページ
  9. ^ 菱田春草「霊昭女」”. www.iida-museum.org. 2024年5月9日閲覧。

参考文献

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  • 『日本国語大辞典』
  • 『国史大辞典』
いずれも「朦朧体」の項目に用例や命名のいきさつが書かれている。
  • 佐藤志乃『「朦朧」の時代―大観、春草らと近代日本画の成立』人文書院、2013年
  • 田邉咲智「菱田春草の欧米遊学と朦朧体」『東アジア文化交渉研究』第13巻、関西大学大学院東アジア文化研究科、2020年3月31日、81-102頁、ISSN 18827748 
  • 中野慎之「朦朧体の再検討」『京都美術史学』3、2022年

関連項目

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外部リンク

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