星島謹一郎
星島 謹一郎(ほしじま きんいちろう、1859年7月14日(安政6年6月15日[1]) - 1942年(昭和17年)2月2日[1][2])は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家、大地主[1]。貴族院多額納税者議員。字は士信、号は鳴龍[1]。
経歴
[編集]素封家、星島啓三郎の長男として備前岡山藩領児島郡藤戸村(岡山県児島郡藤戸町を経て現倉敷市)に生まれる[1]。犬飼松窓の三余塾に学んだのち大阪へ出て藤沢南岳に師事した[1]。1881年(明治14年)9月17日、藤戸村戸長に就任[1]。1886年(明治19年)12月18日、郡村と北浦村の戸長となり、翌年9月27日に辞職した[1]。1888年(明治21年)1月には岡山県会議員に当選し、1897年(明治30年)3月に辞職するまで3期9年間県政に関与した[1]。1900年(明治33年)7月14日の郡会議員選挙では藤戸町から当選し、同年8月16日、同会議長に挙げられ、1903年(明治36年)2月3日に小川十万太に代わるまで務めた[1]。郡会議員には2期当選し、2期目途中の1904年(明治37年)3月に辞職した[1]。
実業界においては、1897年(明治30年)星島銀行を創立し、同頭取に就任[1]。加島銀行、東児銀行、茶屋町銀行、下村銀行などの重役も歴任した[1]。ほか、備前紡績、児島養貝、正織などの重役も務めた[1]。1915年(大正4年)岡山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月2日[3]から務め、1918年(大正7年)再選され、1923年(大正12年)8月29日[4]まで在任した[5]。貴族院議員時代には、同成会に所属し[2]、笠岡湾の埋立事業、干拓、市街地造成、宇野港の築港などに尽力した[6]。
造庭にも造詣が深く宇野の山腹に鳴龍園と呼ばれる別邸を設け、風流を楽しんだ[6]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年 。
- 岡山県歴史人物事典編纂委員会 編『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。ISBN 4881975099。