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扈輒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

扈 輒(こ ちょう、生年不明 - 紀元前234年)は、中国戦国時代幽繆王に仕えた将軍

紀元前234年(幽繆王2年)、の将軍の桓齮が趙の平陽[1][2]武城[3]を攻撃した(平陽の戦い)。扈輒は敗死し、10万人が斬首された[1]。なお、『史記』廉頗藺相如列伝では、扈輒が敗れて戦死したのは武遂と記されている[4][5]

脚注

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  1. ^ a b ウィキソース出典 史記 卷六 秦始皇本紀 第六 (中国語), 史記/卷006, ウィキソースより閲覧。 始皇帝十三年の項、及び六国年表ウィキソース出典 史記 卷十五 六國年表 第三 (中国語), 史記/卷015, ウィキソースより閲覧。 公元前234年の項より
  2. ^ 史記.第一 巻六 秦始皇本紀第六二〇三頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ ウィキソース出典 史記 巻四十三 趙世家 第十三 (中国語), 史記/卷043趙幽繆王, ウィキソースより閲覧。 趙幽繆王元年の項
  4. ^ ウィキソース出典 史記 巻八十一 廉頗藺相如列傳 第二十一 (中国語), 史記/卷081#附 李牧, ウィキソースより閲覧。 後七年の項
  5. ^ 和訳史記列伝 第二十一 廉頗藺相如列伝325頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献

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