扈輒
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扈 輒(こ ちょう、生年不明 - 紀元前234年)は、中国戦国時代の趙の幽繆王に仕えた将軍。
紀元前234年(幽繆王2年)、秦の将軍の桓齮が趙の平陽[1][2]・武城[3]を攻撃した(平陽の戦い)。扈輒は敗死し、10万人が斬首された[1]。なお、『史記』廉頗藺相如列伝では、扈輒が敗れて戦死したのは武遂と記されている[4][5]。
脚注
[編集]- ^ a b 史記 卷六 秦始皇本紀 第六 (中国語), 史記/卷006, ウィキソースより閲覧。始皇帝十三年の項、及び六国年表 史記 卷十五 六國年表 第三 (中国語), 史記/卷015, ウィキソースより閲覧。公元前234年の項より
- ^ 史記.第一 巻六 秦始皇本紀第六二〇三頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 史記 巻四十三 趙世家 第十三 (中国語), 史記/卷043趙幽繆王, ウィキソースより閲覧。趙幽繆王元年の項
- ^ 史記 巻八十一 廉頗藺相如列傳 第二十一 (中国語), 史記/卷081#附 李牧, ウィキソースより閲覧。後七年の項
- ^ 和訳史記列伝 第二十一 廉頗藺相如列伝325頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション