恋知

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恋知(れんち)は、ギリシア語の「フィロソフィア」(Φιλοσοφία: philosophia: philosophy)という単語に対して、西周により「哲学」という訳語が充てられてから現代までに付加された、「哲学」という言葉に対するイメージを払拭し、哲学の意味を捉え返すという試みの下に考案された、「フィロソフィア」の直訳語であり、主にプラトンの著書中にソクラテスによって語られる「フィロソフィア」の用法を哲学の主軸として据えるとする思想、および用語である。

概要[編集]

恋知の提唱は、哲学者である武田康弘によるものである。現在確認できる「恋知」の出版物での初出は『ともに公共哲学する』(金泰昌編著 東京大学出版会) [1]である。同書中金泰昌と武田康弘による「『楽学』と『恋知』の哲学対話」(30回)[2]」の中で武田は、「元来哲学とは主観性の知であり、哲学・対話は生活世界という共通項の中で行うものである」との認識を示し、個々の哲学思想・哲学者の専門家になるのではなく、自身の直接的体験を元に、生活に根差して哲学することを哲学の主軸と捉えるべきと主張した。武田はこのような意味での哲学を、恋知と呼んでいる。同往復書簡で武田は、恋知という意味での「哲学」に生きる思想家として活動した経験を元に金泰昌との対話を展開した。武田はこの一連の対話を、恋知の実践であると語っている[1]

また武田は、哲学が専門家による一学問に甘んじている現状を変革する必要があると指摘する。それには、現在日本に於いて一般的に用いられる哲学の定義と異なる立脚点から哲学の再定義を行う事が必要であると指摘するが、同時に「哲学」という単語を今後も継続して採用しつつその定義を変える事は事実上不可能であるとの認識を示している。そこで武田は「知そのものに恋い焦がれる主観性の知」を中心軸に据える自身の哲学を、哲学という言葉を使わず「恋知」という言葉に充てることを提唱した[3]

これはソクラテスが、それまでにあったソクラテス以前の哲学者の思想と立脚点を異にし、エロース(恋愛)の激情を動力源として知に恋い焦がれる自身の知的営みに対してソクラテスが命名した「Φιλοσοφία(philosophy:フィロソフィー)」という単語への思想的回帰であり、恋知とは武田によるΦιλοσοφία'という単語への本質的かつ直訳的な翻案であると言える[1][4]

出典・脚注[編集]

  1. ^ a b c 金 泰昌『ともに公共哲学する―日本での対話・共働・開新』東京大学出版会、2010年。ISBN 978-4130101172 
  2. ^ この部分は、武田が館長を務める「白樺教育館」のウェブページ上にて、書籍化前の無加筆原稿が公開されている。金泰昌(キム・テチャン)‐武田康弘(たけだやすひろ) 恋知対話
  3. ^ 武田康弘『環境会議2012年春号,スペシャルトピック「全身の細胞で考える 知の冒険を始めよう ~惰性態から脱するソクラテス対話の力~」』株式会社宣伝会議、2012年3月5日。 
  4. ^ なお、提唱者の武田による恋知の定義・本質論に関する著作は、ウェブページ上で無料公開されている。『恋 知』-わたしの生を輝かす営み-(本文中4行目赤字の「PDFファイル」より閲覧可能)

関連項目[編集]