岡田忠養

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岡田 忠養(おかだ ただやす、生没年不詳)は、幕末の幕臣(新規旗本)。岡田林次郎の子。通称は利喜次郎。官名は備後守、安房守。

安政2年(1855年)5月に下田奉行に任ぜられる。翌年ハリスと諸々の事案に対して談合をしたが、ハリスが上府を申し立てている最中に中村時万が着任し、職を離れた。のちに小普請奉行、作事奉行を歴任し、慶応3年(1867年)11月5日に勘定奉行並に就任し、翌2月16日に清水家小普請支配に転出している。

参考文献[編集]