山際順
山際順 やまぎわ じゅん | |
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生年月日 | 1908年2月15日 |
出生地 | 日本 長野県 |
没年月日 | 不明 |
出身校 | 長野県上高井農学校卒業 |
前職 | 須坂市助役 |
所属政党 | 無所属 |
第3・5代 須坂市長 | |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1960年1月24日 - 1968年1月23日 1976年1月24日 - 1984年1月23日 |
山際 順(やまぎわ じゅん、1908年(明治41年)2月15日[1][2] - 没年不明)は、大正末から昭和期の教育者、地方公務員、政治家。長野県須坂市長(4期)。
来歴
[編集]長野県出身[1]。1923年(大正12年)3月に長野県上高井農学校[注釈 1](現・長野県須坂園芸高等学校)を卒業[1]。1924年(大正13年)より上高井郡豊丘尋常高等小学校[2][注釈 2]に勤務し、1942年(昭和17年)まで県内の小学校、青年学校の教諭を務める[2]。
その後、長野県庁に入庁し、西筑摩地方事務所長、1950年(昭和25年)人事委員会事務局長、1957年(昭和32年)社会部厚生課長などを歴任した[2]。
1958年(昭和33年)5月、須坂市助役に転じ、田中邦治市長の病気退任に伴い、推されて1960年(昭和35年)1月、須坂市長に当選し同月24日に就任した[2]。1968年(昭和43年)1月まで2期在任[1][2]。1968年の選挙では3選を目指したが、松沢令之助に敗れた[4]。同年1月23日に退任した[2]。
1976年須坂市長選挙
[編集]1976年(昭和51年)1月18日の市長選挙に立候補して、前に敗れた松沢令之助との激戦を制して当選し、同年1月24日に再び市長に就任した[1][5][6]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
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山際順 | 67 | 無所属 | 元 | 15,635票 | 50.5% | - |
松沢令之助 | 74 | 無所属 | 現 | 14,466票 | 46.7% | - |
丸田喜一 | 49 | 日本共産党 | 新 | 877票 | 2.8% | - |
1980年須坂市長選挙
[編集]1980年(昭和55年)の市長選に立候補して、社会党推薦の新人を破って4選を果たした[7]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
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山際順 | 71 | 無所属 | 現 | 16,628票 | 51.8% | - |
永井順裕 | 46 | 無所属 | 新 | 15,487票 | 48.2% | 社会推薦 |
1984年(昭和59年)1月23日まで2期務め市長に通算4期在任した[5]。
市長として
[編集]任期中、新市建設計画に則り、市道の改良整備、須坂温泉、須坂市営動物園・博物館の建設、常備消防の設置、須坂市民会館、新市庁舎の新築、工場誘致条例制定による工場団地の造成と工場誘致、小学校の新設などを進め、従前の生糸の町から機械工業の町への転換を図った[2][5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『現代人物事典: 出身県別 東日本版』サン・データ・システム、1980年。
- 『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。