小野石根
時代 | 奈良時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 宝亀9年11月8日(778年12月1日) |
官位 | 従五位上左中弁、贈従四位下 |
主君 | 孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇 |
氏族 | 小野氏 |
父母 | 父:小野老 |
子 | 小野石子 |
小野 石根(おの の いわね)は、奈良時代の貴族。大宰大弐・小野老の子。官位は従五位上・左中弁、贈従四位下。
経歴
[編集]孝謙朝末の天平宝字元年(757年)従五位下に叙爵。淳仁朝では南海道節度副使・長門守と地方官を務める。
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱の後に造宮大輔に任ぜられる。称徳朝末の神護景雲3年(769年)近江介に任ぜられ再び地方官に転じ、翌神護景雲4年(770年)の称徳天皇の崩御に際しては山陵司を務めている。
光仁朝に入り、左少弁を経て、宝亀5年(774年)従五位上・左中弁に叙任されると、翌宝亀6年(775年)中衛少将、のち中衛中将と文武の要職を兼帯する。
宝亀7年(776年)大伴益立に替わって、備中守・大神末足と共に遣唐副使に任ぜられる。翌宝亀8年(777年)正月に播磨守に任ぜられ、2月には春日山の麓で遣唐事業の成功を祈願して祭祀を行う[1]。しかし、同年4月に遣唐大使・佐伯今毛人が光仁天皇に出発の暇乞いまでしながら俄に発病し、摂津職に留まって出発できなくなってしまったため、石根が勅を受けて大使の職務を代行することとなった[2]。なお佐伯今毛人の代わりの大使は立てられず、石根が副使のまま大使の職務を代行を命じられている[3]。
同年6月24日に第16次遣唐使一行は出帆し7月3日に揚州海陵県(現在の江蘇省泰州市)に到着。その後一行は長安へ向かうが、安史の乱による駅舎の荒廃を理由に入京人数を43名に制限される。翌宝亀9年(778年)正月に長安に到着し貢ぎ物を進上、3月には皇帝・代宗への拝謁も果たす。同年9月より一行は順次帰国の途につき、石根や唐の送使・趙宝英が乗った第一船は9月5日に出航するが、外海に達した8日に暴風が発生し高波を受けて船は中央から舳と艫に分断し沈没。趙宝英らと共に石根は水死した[4]。
宝亀10年(779年)石根の水難を悼んで従四位下の贈位がなされた。
官歴
[編集]注記のないものは『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天平宝字元年(757年) 8月4日:従五位下
- 天平宝字5年(761年) 11月17日:南海道節度副使
- 天平宝字7年(763年) 正月9日:長門守
- 天平宝字8年(764年) 10月20日:造宮大輔
- 神護景雲3年(769年) 8月19日:近江介
- 神護景雲4年(770年) 8月4日:山陵司(称徳天皇崩御)
- 宝亀4年(773年) 2月21日:見左少弁[5]
- 宝亀5年(774年) 正月7日:従五位上。3月5日:左中弁
- 宝亀6年(775年) 11月27日:兼中衛少将
- 時期不詳:兼中衛中将、鋳銭長官
- 宝亀7年(776年) 12月14日:遣唐副使
- 宝亀8年(777年) 正月3日:播磨守
- 宝亀9年(778年) 11月8日:卒去
- 宝亀10年(779年) 2月4日:贈従四位下