告朔

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告朔(こうさく、こくさく)とは、中国・朝鮮・日本などで行われていた朝廷の儀式の一つ。

中国[編集]

「告朔」の原義は、「朔を告げる」ことである。古代中国では太陽太陰暦が用られており、この毎月の一日(朔日)を知らせることは、その月に行われるすべての行事の起点を示すことであり、重要な意義があった。そこで、毎月の一日に、先代の君主の宗廟に対し、本日は何月の一日である、と報告する儀式があった[1]

告朔の起源は古く、『論語』に孔子子貢が告朔について議論したと記載されている。

子貢欲去告朔之餼羊。子曰「賜也、爾愛其羊、我愛其礼。」(子貢 告朔の餼羊を去らんことを欲す。子曰はく「賜や、爾(なんじ)は其の羊を愛す、我はその礼を愛す。」)

孔子のいた魯の国においては、もとは君主が臨席のもと行われたが、文公の頃から、君主は臨席せず、形式的に餼羊(生贄の)を供えるだけの儀式になっていた。孔子の弟子の子貢は羊がもったいないとしてこの儀式を止めようとしたが、孔子はこれに反対し、羊を供えるという行為が残っていれば、告朔の儀礼が行うべき儀式として存在したことが伝えられる、と述べた[1]

日本[編集]

日本においては、中国の告朔の儀式を受容しながらも、内容に変化を生じた。

有位の文武官人が毎月1日(朔日)に朝庭に会し、諸司(それぞれの官司、役所)の前月の公文律令制における公文書)を進奏し、天皇がこれを閲覧する儀礼。視告朔(こうさく)[2]とも表記する。

757年天平宝字元年)施行の『養老令』の衣服令によれば、告朔の際には朝服を着用することが定められていた。また、『令集解』(868年貞観10年)ころ成立)引用の「古記」によれば、内舎人朝庭に置かれた公文の案をもって内裏に参入し、大納言がそれを天皇に奏上するというかたちで進められていたことがわかる[3]

これは本来、百官の朝政における前月分の勤めぶりと上日(上番の日、勤務日)の日数などを天皇が視る性格をもっていたものであったが、しだいに儀式化していった。

参考文献[編集]

  • 吉川, 幸次郎 (1978). 論語・上. 朝日文庫. ISBN 4022601035 
  • 岸, 俊男 (1985). “朝堂政治のはじまり”. 日本の古代7 まつりごとの展開. 中央公論社. ISBN 4-12-402540-8 
  • 古瀬, 奈津子 (1984). “宮の構造と政務運営法 : 内裏・朝堂院分離に関する一考察”. 史学雑誌 93 (7). NAID 110002364992. 

脚注[編集]

  1. ^ a b 吉川 1978, p. 93-94.
  2. ^ 「視告朔」の場合でも読みは「こうさく」であり、慣例として「視」の字は読まない。
  3. ^ 岸 1986, p. 9-24.

関連項目[編集]