加藤則著

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加藤 則著(かとう のりあき、生没年不詳)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣旗本)。通称は正三郎。官途は従五位下壱岐守、のちに隠岐守。

加藤則孝(200石)の子。少禄であったが、納戸番、納戸組頭、御徒頭となり、才覚をかわれ目付より普請奉行となり、安政6年(1859年)2月24日より外国奉行(安政6年(1859年)6月新設に合わせて神奈川奉行兼帯[1]、在職 - 安政6年(1859年)8月28日)[2]、普請奉行、駿府町奉行[3]、駿府定番を歴任し、勤仕並寄合となった。

注釈[編集]

  1. ^ 水野忠徳堀利煕酒井忠行村垣範正が開設時に兼帯を命ぜられている。
  2. ^ 横浜貿易場並遊里揚屋図西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース
  3. ^ 『東洋実業家評伝. 第2編』 久保田高吉、博交館、明治26-27年、p182-183

参考文献[編集]

  • 徳川幕臣人名辞典(竹内誠著、東京堂出版、2010年)