二宮熊次郎

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にのみや くまじろう

二宮 熊次郎
生誕 1865年6月3日
愛媛県宇和島市
死没 (1916-12-17) 1916年12月17日(51歳没)
国籍 日本の旗 日本
職業 新聞記者
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二宮 熊次郎(にのみや くまじろう、1865年6月3日慶應元年5月10日)- 1916年大正5年)12月17日)は、明治時代から大正時代にかけて活動した日本新聞記者である。「孤松」「震堂」「画美人楼主人」といった号を用いた[1]

人物[編集]

現在の愛媛県宇和島市に生まれる[1]。父は宇和島藩士だった[1]。宇和島に設置された「南予変則中学校」に学んだ[2][3]

15歳の時、藩校明倫館の助教となる[1]1883年(明治16年)に朝野新聞に入社[1]

1888年(明治21年)から1892年(明治25年)までドイツへ留学する[1]。帰国後に山縣有朋の支援で内務省嘱託となり、日清戦争時には戦地で山縣の秘書も務めた[1]

内藤鳴雪の勧めで俳諧に進み、「孤松」は俳号として使用したものである[2]

1898年(明治31年)には日刊紙「京華日報」を、これも山縣の支援により創刊した[1]1904年(明治37年)に雑誌『世界』(現存する岩波書店の同名雑誌とは別)を創刊[1]。1916年に死去した際も現役の編集者であった[1]。訃報に接した山縣は「子のごとく そだちし庭の ひとつ松 なにそは夜半の 雪に折れけん」という弔歌を詠んでいる[2]

著書[編集]

  • 『少壮政治家の狂奔』博文堂、1880年

関連文献[編集]

  • 佐々木隆「明治時代の二宮熊次郎」『メディア史研究』No.23、ゆまに書房、2007年

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 二宮熊次郎 - 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年(コトバンク
  2. ^ a b c 松本麟一、「宇和島英学的人物像」『英学史研究』 1978年 1979巻 11号 p.181-188, doi:10.5024/jeigakushi.1979.181
  3. ^ 松本麟一の論文では校名は「変則中学南予学校」だが、『愛媛県史 近代 上』(1986年)には「南予変則中学校」とあるため(参考外部リンク:四 中学校の創設と整備 - データベース「えひめの記憶」)そちらに従う。