世良田良仲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

世良田 良仲(せらた りょうちゅう、? ~ 明治2年(1869年))は日本医師。腹を切った医者[1]産科医として名があった[2]

経歴[編集]

家は代々会見郡石井村(成実村、現米子市)の村医者で、米子の荒尾家にも仕えていた名家でもあった[3]

誤診であったかどうか判らないが、患家に「この青二才」と面責され医師の面目なしと恥じて割腹自殺したといわれる[2]。「何も誤診ではなかったのだ。死ななくても良かったのに」とは近隣の医師の後の話であった[3]

墓は石井にあり、墓表の戒名には「心篤軒脱解劒居士」とある[3]

その良仲子の賢秀も医師となって石井で開業していたが、何時頃か明らかでないが北海道に移り医業をしていたという[2]

系譜[編集]

世良田家(鳥取県米子市石井

会見郡石井村(成実村、現米子市)の世良田家は代々産婦人科の在医師として有名であった[4]。しかし記録は全くなく、僅かに墓碑がその地に残されているに過ぎない[4]。その墓碑の古いものから挙げると、

「田用良瑞居士」天明二年七月七日[4]
「天明浄明居士」文政八年九月[4]
「学峯文堂居士」文政十二年三月五日[4]
「世良田院徳翁言仲居士」元治元年八月十四日[4]
「心篤軒脱解劒居士」明治二年二月六日[4]
「浩徳院才学賢秀居士」明治四十二年四月二十一日[4]

の墓碑があって、明らかに医師であったと遺族の者のいうのに「世良田院」以降の三名である[4]

        ┏賢秀
良仲━━良仲━━┫
        ┗某━━長三郎━━寿一━━良吉

           春耕
         ┣━━豊茂
   福山旦海━━     娘  きん(陶山家へ嫁ぐ)ー唯雄

脚注[編集]

  1. ^ 森納著『医人奇人 因伯の医師たち夜話』1991年 1-3頁
  2. ^ a b c 『続 因伯の医師たち』233頁。
  3. ^ a b c 『医人奇人 因伯の医師たち夜話』3頁。
  4. ^ a b c d e f g h i 『続 因伯の医師たち』232頁。

参考文献[編集]

  • 森納『続 因伯の医師たち』総合印刷出版、1985年。
  • 森納『医人奇人 因伯の医師たち夜話』森納、1991年。

外部リンク[編集]