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ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・バーデン=ドゥルラハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・バーデン=ドゥルラハ
Wilhelm Ludwig von Baden-Durlach
子供の頃のヴィルヘルム・ルートヴィヒ

出生 (1732-01-14) 1732年1月14日
死去 (1788-12-17) 1788年12月17日(56歳没)
配偶者 クリスティーネ・ヴィルヘルミーネ・ショルトマン
子女 ルイーゼ
ヴィルヘルム・ルートヴィヒ
家名 バーデン家
父親 フリードリヒ・フォン・バーデン=ドゥルラハ
母親 アマーリエ・フォン・ナッサウ=ディーツ=オラーニエン
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ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・バーデン=ドゥルラハ(ドイツ語:Wilhelm Ludwig von Baden-Durlach, 1732年1月14日 - 1788年12月17日)は、初代バーデン大公カール・フリードリヒの弟。1753年アルンヘムを拠点とするヘルダーラントの総督となり、1766年にネーデルラント議会によりネーデルラント副総督に任命された[1]。また、1769年以降は実業家としても活動した。

生涯

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ヴィルヘルム・ルートヴィヒはフリードリヒ・フォン・バーデン=ドゥルラハオラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾの娘アマーリエの間の息子である。

1732年に父フリードリヒが死去した後、母アマーリエは精神的な病を患ったため、祖母マグダレーナ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴュルテンベルクがヴィルヘルム・ルートヴィヒと兄カール・フリードリヒの養育を引き受けた。

ヴィルヘルム・ルートヴィヒは1743年から1745年までローザンヌ大学で高度な教育を受けた。1745年および1746年にパリとネーデルラントに訪れ、ネーデルラントでは後にネーデルラント連邦共和国の総督となる叔父ウィレム4世とともに過ごした。

叔父ウィレム4世は、奔放なヴィルヘルム・ルートヴィヒが兄カール・フリードリヒに悪い影響を及ぼしているとみなした。カール・フリードリヒが領地の統治のためカールスルーエに戻った時に、叔父ウィレム4世はヴィルヘルム・ルートヴィヒにネーデルラントで軍務につくように命じた[2]

兄カール・フリードリヒの許しを得て、ヴィルヘルム・ルートヴィヒはクリスティーネ・ヴィルヘルミーネ・ショルトマンと貴賤結婚をした。この結婚により生まれた子供たちは1777年1月27日にカール・フリードリヒにより貴族に列せられた。子供たちはゼルデネック男爵に叙せられ、ゼルデネック家の紋章の使用を許された。元々のゼルデネック家はフランケン貴族で1583年にすでに断絶していた。息子ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・ゼルデネックはゼルデネック家の家祖となった[3]

ヴィルヘルム・ルートヴィヒはミュールブルクを購入し、1769年に染料の製造を始めた。その工場は1770年にはビール醸造所に変えられ、1771年からはブランデーの製造も開始した。この醸造所は1921年まで続いた。

子女

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1765年にバーデン宮廷にてクリスティーネ・ヴィルヘルミーネ・フランツィスカ・ショルトマンと結婚した。

  • ルイーゼ(1763年10月31日 - 1824年2月15日)
  • ヴィルヘルム・ルートヴィヒ(1766年1月15日 - 1827年1月12日) - ゼルデネック男爵

脚注

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  1. ^ Sachs, pp. 174 - 175
  2. ^ Borchardt-Wenzel, pp. 53 - 55
  3. ^ Becke-Klüchtzner, p. 434

参考文献

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  • Annette Borchardt-Wenzel: Karl Friedrich von Baden – Mensch und Legende. Casimir Katz Verlag, Gernsbach 2006, ISBN 3-938047-14-3
  • Johann Christian Sachs: Einleitung in die Geschichte der Marggravschaft und des marggrävlichen altfürstlichen Hauses Baden, Karlsruhe 1764–1770, Vol. 5, pp. 173 - 175
  • Edmund von der Becke-Klüchtzner, Stamm-Tafeln des Adels des Großherzogthums Baden: ein neu bearbeitetes Adelsbuch, Baden-Baden, 1886