ヴィエシュホスワヴァ・ルドミワ・ミェシュコヴナ
表示
ヴィエシュホスワヴァ・ルドミワ・ミェシュコヴナ Wierzchoslawa Ludmiła Mieszkówna | |
---|---|
出生 |
1153年以前 |
死去 |
1223年以前 |
配偶者 | ロレーヌ公フェリー1世 |
子女 | 本文参照 |
家名 | ヴィエルコポルスカ・ピャスト家 |
父親 | ポーランド大公ミェシュコ3世 |
母親 | エルジェーベト |
ヴィエシュホスワヴァ・ルドミワ・ミェシュコヴナ(ポーランド語:Wierzchosława Ludmiła Mieszkówna, 1153年以前 - 1223年以前)は、ピャスト家出身のポーランド公女。ビッチュ領主、のちロレーヌ公のフェリー1世の妃。
生涯
[編集]ヴィエシュホスワヴァはポーランド大公ミェシュコ3世と、その最初の妃でハンガリー王ベーラ2世の娘エルジェーベトとの間に生まれた第4子、次女である[1]。名前はおそらく、ポーランド大公ボレスワフ4世の妃ヴェルフスラヴァ・フセヴォロドヴナにちなんで付けられたものと思われる。ミェシュコ3世はこの娘の名づけにより、おそらく自らと兄ボレスワフ4世との関係が良好であることを示したとみられる。
1167年頃、ヴィエシュホスワヴァはロレーヌ公マチュー1世の次男のビッチュ領主フェリー1世と結婚した。この結婚は、マチュー1世の母方の伯父である神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世のポーランド訪問中に取り決められた[1]。ヴィエシュホスワヴァは夫との間に次の9子を産んだ。
- フェリー2世(1165年頃 - 1213年) - ロレーヌ公
- ティエリー(悪魔卿) - オティニー領主。マチュー2世・ド・モンモランシーの娘ジェルトリュードと結婚。
- アンリ - バイヨンヌ領主
- フィリップ(1243年没) - ジェルベヴィエ領主
- マチュー(1170年 - 1217年) - トゥール司教
- アガット(1242年没) - ルミルモン女子修道院長
- ジュディット - ザルム伯ハインリヒ2世と結婚
- エドヴィジュ(1228年没) - ツヴァイブリュッケン伯ハインリヒ1世と結婚
- キュネゴンド(1214年没) - リンブルフ公ヴァルラム3世と結婚
ヴィエシュホスワヴァは、フランスとポーランドの芸術の窓口となった。有名なグニェズノ大聖堂の扉は、ヴィエシュホスワヴァの努力により1180年ごろに父ミェシュコ3世の宮廷に建造されたとも考えられている[2]。
フェリー1世とその兄ロレーヌ公シモン2世との間の長年にわたる対立の後、1205年にシモン2世は退位して修道院に入った。その後、フェリー1世はロレーヌ公となり、ヴィエシュホスワヴァはロレーヌ公妃となった。しかしフェリー1世の統治は長くは続かず、1年後に亡くなった。ヴィエシュホスワヴァは夫の死後ポーランドに戻り、1223年ごろにポーランドで死去した[1]。