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ヴィエシュホスワヴァ・ルドミワ・ミェシュコヴナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィエシュホスワヴァ・ルドミワ・ミェシュコヴナ
Wierzchoslawa Ludmiła Mieszkówna

出生 1153年以前
死去 1223年以前
配偶者 ロレーヌ公フェリー1世
子女 本文参照
家名 ヴィエルコポルスカ・ピャスト家
父親 ポーランド大公ミェシュコ3世
母親 エルジェーベト
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ヴィエシュホスワヴァ・ルドミワ・ミェシュコヴナポーランド語:Wierzchosława Ludmiła Mieszkówna, 1153年以前 - 1223年以前)は、ピャスト家出身のポーランド公女。ビッチュ領主、のちロレーヌ公フェリー1世の妃。

生涯

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ヴィエシュホスワヴァはポーランド大公ミェシュコ3世と、その最初の妃でハンガリー王ベーラ2世の娘エルジェーベトとの間に生まれた第4子、次女である[1]。名前はおそらく、ポーランド大公ボレスワフ4世の妃ヴェルフスラヴァ・フセヴォロドヴナにちなんで付けられたものと思われる。ミェシュコ3世はこの娘の名づけにより、おそらく自らと兄ボレスワフ4世との関係が良好であることを示したとみられる。

1167年頃、ヴィエシュホスワヴァはロレーヌ公マチュー1世の次男のビッチュ領主フェリー1世と結婚した。この結婚は、マチュー1世の母方の伯父である神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世のポーランド訪問中に取り決められた[1]。ヴィエシュホスワヴァは夫との間に次の9子を産んだ。

  • フェリー2世(1165年頃 - 1213年) - ロレーヌ公
  • ティエリー(悪魔卿) - オティニー領主。マチュー2世・ド・モンモランシーの娘ジェルトリュードと結婚。
  • アンリ - バイヨンヌ領主
  • フィリップ(1243年没) - ジェルベヴィエ領主
  • マチュー(1170年 - 1217年) - トゥール司教
  • アガット(1242年没) - ルミルモン女子修道院長
  • ジュディット - ザルム伯ハインリヒ2世と結婚
  • エドヴィジュ(1228年没) - ツヴァイブリュッケン伯ハインリヒ1世と結婚
  • キュネゴンド(1214年没) - リンブルフ公ヴァルラム3世と結婚

ヴィエシュホスワヴァは、フランスとポーランドの芸術の窓口となった。有名なグニェズノ大聖堂の扉は、ヴィエシュホスワヴァの努力により1180年ごろに父ミェシュコ3世の宮廷に建造されたとも考えられている[2]

フェリー1世とその兄ロレーヌ公シモン2世との間の長年にわたる対立の後、1205年にシモン2世は退位して修道院に入った。その後、フェリー1世はロレーヌ公となり、ヴィエシュホスワヴァはロレーヌ公妃となった。しかしフェリー1世の統治は長くは続かず、1年後に亡くなった。ヴィエシュホスワヴァは夫の死後ポーランドに戻り、1223年ごろにポーランドで死去した[1]

脚注

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  1. ^ a b c POLAND”. Foundation for Medieval Genealogy. 2023年8月16日閲覧。
  2. ^ K. Ożóg, Wierzchosława Ludmiła, (in:) Piastowie. Leksykon biograficzny, p. 118, Biographical Lexicon, Kraków 1999.