レオナルド3世トッコ
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レオナルド3世トッコ Λεονάρδος Γ΄ Τόκκος | |
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専制公 | |
在位 | 1448年10月 – 1449年3月24日 |
出生 |
不詳 エピロス専制侯国 |
死去 |
1499年 ナポリ王国 |
配偶者 | ミリカ・セルビア |
フランツェスカ・マルッツァーノ | |
子女 | カルロ3世トッコ他( 子女の節を参照のこと) |
家名 | トッコ家 |
父親 | カルロ2世トッコ |
母親 | ラモンディナ |
宗教 | 正教会 |
レオナルド3世トッコ(ギリシア語: Λεονάρδος Γ΄ Τόκκος、英語: Leonardo III Tocco、在位:1448年 - 1449年)とは、最後のエピロス専制侯国の君主、アドリア海の島々、ケファロニファ島の領主(伯)。
生涯
[編集]レオナルド3世はオルシーニ家の血縁でケファロニア伯領を継いでいたアルバニア系貴族・トッコ家の出身であった。父はエピロスの専制公カルロ2世トッコ、母はラモンディナであった。1448年10月の父の死後、エピロスの専制公に即位する。
そのわずか1年後、1449年のオスマン朝によるエピロス専制侯国の攻撃を受け、結果征服されてオスマン帝国のスルターンの支配下に入った。しかし、レオナルド3世は1479年までケファロニファに所領を持ち続け、その地を伯として領有する。また、レフカス公の称号も称した。
しかし、そのわずかな所領もオスマン朝に接収され、レオナルド3世はナポリ王国への亡命を余儀なくされた。しかし、ナポリ王国ヘの亡命後もその地でエピロスの専制公を称し続けた。また、レオナルド3世の長子・カルロ3世トッコもエピロスの後継者を名乗った。
子女
[編集]ミリカ・セルビアと言うセルビア人の妃との間に、レオナルド3世は以下の子供を授かる。
また、側室フランチェスカ・マルッツァーノとの間には、以下の子女が生まれた。
- レオノーラ・トッコ(修道女)
- マリア・トッコ(後に、貴族ピエトロ・タラマンカと結婚した)
- ピエトロ・トッコ(若くして死んだと考えられる)
- ラモンディナ・トッコ(1492年3月1日にはアントニオ・マリア・ピコ・デッラ・*ミランドラ伯爵と結婚した。)
- フェランテ・デ・トッコ(1535年死去) ミラーによれば、フェランテは1506年にイングランドのヘンリー7世の宮廷のスペイン大使を務めました。フェランテの息子であるベネットトッコは、1572年から1583年にジローナの司教となった。ベネットは、1583年から1585年の彼の死まで、リェイダの司教も務めた。
- ヒッポリタ・トッコ
参考文献
[編集]- Nicol 1993, p. 208.
- Miller 1908, p. 416.