ラミントン男爵
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ラミントン男爵 Baron Lamington | |
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創設時期 | 1880年5月3日 |
創設者 | ヴィクトリア |
貴族 | 連合王国貴族 |
初代 | 初代男爵アレクサンダー・ベイリー=コクラン |
最終保有者 | 3代男爵ヴィクター・ベイリー=コクラン |
付随称号 | なし |
現況 | 廃絶 |
断絶時期 | 1951年 |
モットー | 幸運に勝る輝きやあらん (qvid clarivs astris) |
ラミントン男爵(英: Baron Lamington)は、かつて存在したイギリスの男爵位。1880年以来、3代にわたってコクラン=ベイリー家が保持していたが、1951年に廃絶した。ダンドナルド伯爵家の分家筋であった。
歴史
[編集]首相ベンジャミン・ディズレーリの若き日の盟友にして保守党の政治家アレクサンダー・ベイリー=コクラン(1816-1890)は、晩年にあたる1880年5月3日に連合王国貴族爵位のラナーク州ラミントンのラミントン男爵(Baron Lamington, of Lamington, in the County of Lanark)に叙せられた[註釈 1][4][5]。彼ののちは一人息子のチャールズが爵位を継承した。
2代男爵チャールズ(1860-1940)も父同様に保守党の政治家で、クイーンズランド州総督やボンベイ総督を歴任している[4][6]。
その息子である3代男爵ヴィクター(1896-1951)はスコッツガーズ連隊付大尉として第一次世界大戦に従軍して、柏葉敢闘章を授与されている[7]。しかし、彼には子がなかったため、彼の死をもってラミントン男爵は廃絶となった[7]。
一族のモットーは『幸運に勝る輝きやあらん(qvid clarivs astris)』であった[4]。
ラミントン男爵(1880年)
[編集]- 初代ラミントン男爵アレクサンダー・ダンダス・ロス・コクラン=ウィシャート=ベイリー (1816–1890)
- 第2代ラミントン男爵チャールズ・ウォレス・アレクサンダー・ネイピア・ロス・ベイリー=コクラン (1860–1940)
- 第3代ラミントン男爵ヴィクター・アレクサンダー・ブリズベーン・ウィリアム・コクラン=ベイリー (1896–1951) (1951年ラミントン男爵廃絶)
脚注
[編集]註釈
[編集]- ^ 初代男爵はその若き日にディズレーリらとともに、党内反執行グループである「ヤング・イングランド」を結成して行動した[2]。ただし、彼はディズレーリの野心を警戒もしていたという[3]。
出典
[編集]- ^ “Some Special Recipes.”. The Sydney Mail (NSW: National Library of Australia): p. 37. (29 June 1927). オリジナルの1 February 2015時点におけるアーカイブ。 17 December 2019閲覧。
- ^ ブレイク(1993), p. 193-203.
- ^ モロワ(1960), p. 149.
- ^ a b c Debrett's peerage, and titles of courtesy, in which is included full information respecting the collateral branches of Peers, Privy Councillors, Lords of Session, etc. Wellesley College Library. London, Dean. (1921)
- ^ “No.24838”. The Gazette 27 April 1880. 2020年2月10日閲覧。
- ^ Joyce, R. B.『Australian Dictionary of Biography』National Centre of Biography, Australian National University、Canberra、p=536頁 。
- ^ a b “Person Page”. thepeerage.com. 2020年2月9日閲覧。
参考文献
[編集]- ブレイク男爵 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局、1993年(平成5年)。ISBN 978-4172820000。
- アンドレ・モロワ 著、安東次男 訳『ディズレーリ伝』東京創元社、1960年(昭和35年)。ASIN B000JAOYH6。
関連項目
[編集]- ダンドナルド伯爵―本家筋。
- カルツのコクラン男爵―同族、同じく伯爵家の分家筋。
- ラミントンケーキ―2代男爵に因むという説がある。