モナーク工業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

モナーク工業(モナークこうぎょう)は、かつて日本に存在していた2輪車メーカーである。なお、かつてスウェーデンに存在した2輪車メーカーのモナークとは無関係である。

概要[編集]

1950年メグロに勤務していた村田不二夫[1]によってモナークモーターとして創業[2]。村田不二夫はハンサムな容姿で「メグロ号」の広告モデルとなったり、2輪車雑誌の表紙も飾ったりした。やがて不二夫も延治のようにオートレースへの興味がわくようになり独立して自身でレーサーマシンを開発しレースに出場したいと思うようになった。

そこで不二夫は延治にこのことを申し出た。最初、自身もレースへの興味からか2輪車メーカーとしての再興途上にあったことから強く反対することもできずに、桑原茂道の事故の教訓によりオートレースには今後自身が参加しないことを条件[3]として、目黒製作所の下でオートバイを販売することとなり、旧大森工場跡を借り受けて製造を始めた[4]。早速、新規に開発した車体に、メグロの4ストローク・OHV・149ccの「BHK」エンジンを搭載したポニーモナーク号の製造販売が開始された[5]

やがてスポーツ仕様の2輪車開発のため、親交の深かった野村房夫[6]を共同経営者として招き入れ[7]、モナーク・インターナショナルを開発した。モナーク・インターナショナルのエンジンは野村房男が設計し、野村の会社である野村工業が製造。ベロセットMシリーズのハイカムシャフトOHV単気筒エンジンの縮小コピーに近い[8]。インターナショナルとはエンジン製造を担当した野村工業のブランドだったという[9]

ポニー・モナークは1953年の第1回富士登山レースで2位を獲得。

インターナショナル・モナークは1954年の第2回富士登山レース・ライトウェイトクラス(250cc)で1位、3位、4位、7位。1955年の第1回浅間火山レースでは特別に製作したワークスマシンがライトウェイトクラス(250cc)で4位と7位になり、ホンダなどを抑えてチーム優勝を獲得している[10]

1954年、モナークモーターの経営は悪化し消滅[11]

1955年にモナーク工業として再起し、新型車のモナークSP[12]を発売[8]するも、1962年に倒産した。

村田不二夫はその後に栃木県に移り、時計の部品などの製造を行っていたが、2004年に死去。モナーク・インターナショナルのエンジンを設計製造した野村房男は1988年に死去[13]

シリーズ車種[編集]

  • ポニーモナーク(モナークモーター)
  • モナーク・インターナショナル(モナークモーター)
  • モナークM3(モナークモーター)
  • モナークF1(モナークモーター)
  • モナークSP(モナーク工業)

脚注[編集]

  1. ^ メグロの社長である村田延治の次女(村田アイ)の夫。同姓だが決して婿養子ではなく、元から偶然に同じ姓だったという。八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号
  2. ^ 石川照二(某財閥に連なり、元はメグロの販売店を経営していたという)が創業し、村田不二夫が引き継いだとする記事もある。八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号
  3. ^ なお村田不二夫はモナークを創業(あるいは経営を継承)後も自ら名古屋TT富士登山レースなどに出場しており、スポーツ指向が強い人物だったという。八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号-7月号、同2002年11月号
  4. ^ その後、東京都港区高輪で営業。八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号-7月号
  5. ^ 1951年ごろに石川照二から村田不二夫がモナークモーターの経営を引き継いだという記事もある。八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号
  6. ^ 村田延治の近隣(東京都目黒区)に在住。本業は写真映像機器の製造会社(野村工業)だが、戦前から2輪車に親しんでいたという。八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号-7月号
  7. ^ 共同経営ではなく、野村房男(野村工業)はエンジン製造を担当したビジネスパートナーとする記事もある。八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号-7月号
  8. ^ a b 八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号
  9. ^ 八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年7月号
  10. ^ 野村房男は第1回浅間火山レースの結果について「私は今でも周回数の数え間違いだと思う。あんなに何度も止まっていたホンダ(2位、6位など)がモナークより上位のはずがない」と語っていた。モーターマガジン社「ゴーグル」、八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年7月号
  11. ^ 朝鮮戦争の特需景気が後退し、モナークの経理面の手際も悪かったという。八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号
  12. ^ 浅間火山レースに出場したワークスマシンを量産化。八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号
  13. ^ 八重洲出版「別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号-7月号

参考文献[編集]

  • 八重洲出版別冊モーターサイクリスト」 2000年6月号-7月号
  • 「日本モーターサイクル史 JAPAN MOTORCYCLE HISTORY 1945→2007」八重洲出版
  • 富塚清「日本のオートバイの歴史。 二輪車メーカーの興亡の歴史」三樹書房