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マルクス・トゥッリウス・デクラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マルクス・トゥッリウス・デクラ
M. Tullius M. f. A. n. Decula
出生 不明
死没 不明
出身階級 プレブス
氏族 トゥッリウス氏族
官職 造幣官?紀元前102年100年の間)
法務官紀元前84年以前)
執政官紀元前81年
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マルクス・トゥッリウス・デクララテン語: Marcus Tullius Decula、 生没年不詳)は紀元前1世紀初期の共和政ローマの政治家。紀元前81年執政官(コンスル)を務めた。

出自

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デクラは、ほとんど無名のプレブス(平民)である、トゥッリウス氏族の出身である。カピトリヌスのファスティによれば、デクラの父のプラエノーメン(第一名、個人名)はマルクス、祖父はアウルスである[1]。父および祖父に関しては名前以外は分からず、デクラははノウス・ホモ(父祖に高位官職者を持たない新人)と思われる。

経歴

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紀元前102年100年の間に鋳造されたと思われるデナリウス銀貨に、M. Tulli (us) と刻印されており、デクラはこの時期に造幣官を務めていたと思われる。しかし、この銀貨の鋳造時期を紀元前160年から114年の間とする説もあり、この場合は父マルクスが造幣官を務めたと考えられる[2]

デクラはアエディリス(按察官)に立候補したが落選したことが、親戚であるキケロの『プランキウス弁護』から分かる[3]が、時期は不明である。デクラに関して、時期が分かる唯一の確実な情報は、紀元前81年に執政官に就任したことである。執政官就任年とウィッリウス法の規定から逆算して、デクラは遅くとも紀元前84年にはプラエトル(法務官)を務めたはずである[4]

紀元前82年、内戦に勝利したルキウス・コルネリウス・スッラは永久独裁官に就任した。12月にはデクラとグナエウス・コルネリウス・ドラベッラが翌年の執政官に選出され、スッラはこれを了承した[4][5]。スッラのこの人選の理由は不明である。ドラッベラは特に著名な人物ではなく、これといった功績もなかった[2][6]

選挙自体は明らかにスッラが支配していた。スッラ配下の将軍であったクィントゥス・ルクレティウス・オフェッラは、スッラの意向に反して執政官選挙に立候補したのだが、殺害された[7]。デクラとドラベッラは、執政官とはいえスッラが独裁官として権力を掌握していたため、全く実権を持たなかったと思われる。執政官としてのデクラの業績は何も知られていない。ただ、その名前がいくつかの資料に記録されているだけである。

脚注

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  1. ^ カピトリヌスのファスティ
  2. ^ a b Münzer, 1948.
  3. ^ キケロ『プランキウス弁護』、51.
  4. ^ a b Broughton, 1952, p. 74.
  5. ^ アッピアノス『ローマ史:内戦』、Book I, 100.
  6. ^ Korolenkov, Smykov, 2007 , p. 317.
  7. ^ Korolenkov, Smykov, 2007, p. 317-318.

参考資料

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古代の資料

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研究書

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  • Korolenkov A. , Smykov E. Sulla. - M .: Molodaya gvardiya, 2007 .-- 430 p. - ISBN 978-5-235-02967-5 .
  • Broughton T. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1952. - Vol. II. - P. 558.
  • Münzer F. Tullius 34 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - Stuttg.  : JB Metzler, 1948. - Bd. II, 14. - Kol. 1312.

関連項目

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公職
先代
ガイウス・マリウス
グナエウス・パピリウス・カルボ III
執政官
同僚:グナエウス・コルネリウス・ドラベッラ
紀元前81年
次代
ルキウス・コルネリウス・スッラ II
クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス