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ヘンリー・ハワード (第3代エフィンガム伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ケンサル・グリーン墓地英語版にある第3代エフィンガム伯爵の墓、2014年撮影。

第3代エフィンガム伯爵ヘンリー・ハワード英語: Henry Howard, 3rd Earl of Effingham1837年2月7日1898年5月4日)は、イギリスの貴族。1845年から1889年までハワード卿の儀礼称号を使用した[1]

生涯

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第2代エフィンガム伯爵ヘンリー・ハワード英語版と妻イライザ(Eliza、旧姓ドラモンド(Template:Drummond)、1811年ごろ – 1894年2月27日、サー・ゴードン・ドラモンド英語版の娘)の長男として、1837年2月7日に生まれた[1]ハーロー校で教育を受けた後[1]、1855年6月7日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[2]

1858年5月17日にオックスフォードシャー・ヨーマンリー連隊英語版コルネット英語版(騎兵少尉)に任命され[3]、1872年6月1日に辞任した[4]

1876年12月21日、オックスフォードシャー副統監に任命された[5]

1889年2月5日に父が死去すると、エフィンガム伯爵位を継承した[1]貴族院では自由統一党に属した[1]

長く苦しい闘病生活ののち、1898年5月4日にサックヴィル・ストリート英語版のサックヴィル・ホテル(Sackville Hotel)で死去、7日にケンサル・グリーン墓地英語版に埋葬された[1]。息子ヘンリー・アレクサンダー・ゴードンが爵位を継承した[1]

家族

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1865年10月31日、ヴィクトリア・フランチェスカ・ボイヤー(Victoria Francesca Boyer、1899年6月20日没、A・ボイヤーの娘)と結婚[1]、1男をもうけた[6]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 15–16.
  2. ^ Foster, Joseph (1888–1892). "Howard, Henry (Baron)" . Alumni Oxonienses: the Members of the University of Oxford, 1715–1886 (英語). Vol. 2. Oxford: Parker and Co. p. 699. ウィキソースより。
  3. ^ "No. 22142". The London Gazette (英語). 21 May 1858. p. 2519.
  4. ^ "No. 23863". The London Gazette (英語). 31 May 1872. p. 2578.
  5. ^ "No. 24398". The London Gazette (英語). 29 December 1876. p. 7148.
  6. ^ a b Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1931). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council and Knightage (英語) (89th ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 871.

外部リンク

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イギリスの爵位
先代
ヘンリー・ハワード英語版
エフィンガム伯爵
1889年 – 1898年
次代
ヘンリー・ハワード