ノート:河内経国

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河源記」や系譜類の史料で構成された記事ですが、現在の方に拠る文献(参考文献)が無く、信頼できる情報源として不十分です。河源記を尊重してよいのか不明ですし、見解もあるなど1次史料の評価の部分もあります。除去するような内容ではないのですが。室町期以前の記録類のみで、明治以降の研究文献・参考文献が全く挙げられないのは良くありません。「学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます」(信頼できる情報源より)とあるので、現代の参考文献の追加をお願いする意味で{{出典の明記}}とします。別のタグでより適切なものがあれば変更してください。--以上の署名のないコメントは、KurmUmy会話/Whois)さんが 2011年9月4日 (日) 08:26 (UTC) に投稿したものです。[返信]

河源記」の参考文献である『大日本古文書 河源記』は1917年の出版物ですが、1917年は大正6年です。--葉月 2011年9月5日 (月) 04:02 (UTC)[返信]
署名を忘れて申し訳ありませんでした。 さて、葉月様がおっしゃっている『大日本古文書 河源記』ですが、これは上で言っている明治以降の研究文献・参考文献ではありません。ここで私が言っているのは研究者の常識的な参考文献ではなく、あくまでwikipediaでの2次資料に値する明治以降の研究文献・参考文献です。Wikipedia:信頼できる情報源をご覧ください。『大日本古文書 河源記』はリンク先の用語にある1次資料「編纂された全集の中に登場する歴史文書」にあたります。さらにこの1次資料は、「一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです。ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。特に歴史についての主題を扱う場合がそうです。ウィキペディアの記事で一次資料を使ってよいのは、信頼できる出版元から公刊されている場合だけです。」とあります。続けて「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません。Wikipedia:独自研究は載せないおよびWikipedia:検証可能性をご覧ください。」とあるので現在の記事で使う分には問題ありませんが、ここでの2次資料はありませんよね?さらにいえば、内容確認ができないのですが「大日本古文書 河源記」のなかに河源記本文以外にこれについて論文(これならwikipediaの2次資料です)が含まれたとしても、あくまで河源記の記事の参考文献であって、河内経国の記事には物語の河源記から引用されるのみで2次資料はありません。もし大日本古文書の原典引用部ではなく付属で解説があって、それを参考文献にしたいなら著者をつけて参考文献として「河内経国」に参考文献節(参考文献とはここでは学者による研究書のこと)を加筆すれば解決します。少なくとも本文に「見解がある」「研究を待ちたい」「河内判官(略)河内判官季国が同時代人ため、混同されたとするのが通説」など、どう考えても系譜や物語が出典とは思えず、2次資料の出典によるべき文章もあります。「国史大辞典」のような歴史人物辞典でもよいので追加すべきです。古文書・古記録しか文面上出典としてわからない現状はまずいです。--KurmUmy 2011年9月5日 (月) 07:38 (UTC)[返信]
それを私の求められても困ります。問われている部分を編集された方にお求めください。ただ、一般的にそれを求めだすとすべての歴史的事項について出典を求める必要があると思われます。wikipediaの記事の多くが出典を明示できていないという状況になります。当該の記事など河内源氏に関しての記事のみ厳重に求め過ぎではないかと思われます。また、尊卑分脈に関して重視されているようですが、尊卑を重視している論文は平成に入って減少している状況ですが、未だにwikipediaでは最重要文献として利用し、他の史料より優先しているように感じます。あまりにも歴史学の現場とかけ離れているように思います。とはいえ、それがwikipediaのルールだとすれば仕方がないのでしょうが、記事は発展せず、wikipediaが過去の遺物になっていくことになるでしょう。前回は広域ブロックで巻き込まれましたが、今回は疲れましたので休養(活動休止)します。そのため返事は書けないと思いますのでご了解願います。--葉月 2011年9月5日 (月) 12:51 (UTC)[返信]
尊卑を重視している論文が単に昔の論文・書籍で、図書館で手に取りやすいからでしょう。葉月様は2007年以前のあまり出典が煩くない時代をご存知なのかもしれませんが、現在のwikipediaではあくまで古文書に載ったことが書くのではなく、「この古文書に載っていると**という論文にある」とするのが求められます。秀逸な記事に選ばれた熊野三山本願所をご覧下さい。『中右記』や『頼資卿熊野詣日記』の内容が記載されますが、『中右記』や『頼資卿熊野詣日記』を出典にしていません。脚注で太田直之『中世の社寺と信仰 - 勧進と勧進聖の時代』、宮家準『熊野修験』、など書籍を出典にしています。古記録・古文書を直接出典にせず、「**文書(系図)に~~とある」と記述する現代の論文書籍が出典として求められます。ですから国史大辞典のような図書館に多い尊卑を重視している論文書籍が出典として付され、古い表現が多いのでしょう。歴史学の現場の情報が信頼できる情報源なら、論文を付して書いてください。ただし研究者が正しいと思っていても、学会外から(研究者に聞く以外の文書ベースの方法で)正しいという情報がわからないと、異説・新説になります。
河内源氏に関しての記事のみ厳重に求め過ぎではないか>単に目に付いただけ、というか源為義を調べた際、見た本に全く河内経国が出なかったので私が気になっただけです。他に葉月様が同様な記事を見つけたら出典を求めるのは正しいですよ。そして、葉月様のみに出典を求めてなど居ません。記事を見た方でご存知の人が追加できるように、記事冒頭に出典を下さいというお知らせテンプレート(表現が強いですが)を出したのです。内容が間違っているなど考えていません(そうなら内容を除去しています)。熊野三山本願所のような(あれほど多くなく1つでもよいですが)参考文献が欲しいといっただけです。なのに何も言わずお知らせを消したのは葉月様です。消すなら理由を述べるか、出典追加すればよいでしょう。お知らせの言い方が悪いなら変えてくださいと上で言っています。出典が追加できないなら消さないで下さい。とりあえず疑問が残ったままなのでタグは戻します。--KurmUmy 2011年9月6日 (火) 12:17 (UTC)[返信]
葉月様、出典の追加ありがとうございました。私には内容確認ができませんが、形式として問題なく、上記の私疑は解決されました。重ねてタグ除去ありがとうございます。--KurmUmy 2012年2月26日 (日) 02:19 (UTC)[返信]

出典への疑問点[編集]

上記で出典追加とされたのですが、取り消します。参考文献中の『河内源氏の研究』(三浦周行著、紅玉堂書店、1922年)ですが、国会図書館の検索(NDL-OPAC)やNACSIS Webcat、大阪府Web-OPAC横断検索等を使用しても、三浦周行氏の著作として見つかりません。この「河内源氏の研究」は、三浦の別の著作・論文の中で出てきた節の名前ではありませんか? このままだと検証可能性を満たさないと考えます。--KurmUmy会話2012年4月8日 (日) 08:55 (UTC)[返信]

出典が確認できないため必要最低限部分以外除去しました。稲沢氏関連の郷土研究家か先祖の伝承を記述した独自研究の虞が強くあります。--KurmUmy会話2018年7月18日 (水) 11:44 (UTC)[返信]