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クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポ(Kun dga' blo gros rgyal mtshan dpal bzang po、1299年 - 1327年)は、チベット仏教サキャ派仏教僧大元ウルスにおける8代目の帝師を務めた。

漢文史料の『元史』では公哥羅古羅思監蔵班蔵卜(gōnggē luógǔluósī jiānzàng bānzàngbǔ)と表記される。

概要

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フゥラン・テプテル』によると、初代帝師パクパの異母弟にあたるイェシェー・チェンネーはケンポ・チャルラスクパ(mKhan po car la zug pa)と称し、ジョモ・リンチェンキ(Jo mo rin chen skyid)という妃との間にラマダクニチェンポ・サンポペル(bLa ma bdag nid chen po bzang po dpal)という息子が生まれた[1]

この頃、クビライはチベットに対する統制を強めており、恐らくはその一環としてサンポペルは江南(マンジ)に留め置かれ、その間にチベットでは非コン氏の座主・帝師が輩出された[2]。しかしクビライが亡くなるとチベットに対する強行姿勢は和らげられ、帝師タクパ・オーセルの請願もあってサンポペルはチベット本国に帰還し、この時クンガ・ブムプルワ(Kun dga' 'bum phul ba)との間に生まれたのがクンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポであった[1]。よって、クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポはサキャ派の支配氏族たるコン氏の正系であり、初代帝師パクパの甥の子にあたる筋目正しい人物であった[3]

チベット語史料の多くは一致して「(クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポは)父のサンポペルが38歳であった1299年己亥)に生まれ、朝廷に赴いて帝師となった」と記しており、これに対応するように漢文史料の『元史』には延祐2年(1315年)に「公哥羅古羅思監蔵班蔵卜(=クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポ)」が帝師に任命され玉印を下賜されたと記されている[4][5]。なお、『仏祖歴代通載』などの史料ではクンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポが帝師とされた歳を「延祐3年(1316年)10月」と記しているが、これでは先代帝師の死より間が空きすぎること、またクンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポが延祐3年(1316年)4月8日づけで発行した文書が現存していることなどから、研究者は『元史』の延祐2年(1315年)の帝師就任を正しいと見る[6]

漢文史料・チベット語史料双方でクンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポは至治元年(1321年)から至治2年(1322年)にかけて具足戒を受けるために一時チベットに帰国したと記録されており[7][8]、恐らくはこの点を踏まえて「クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポの経歴はパクパと似ている」と評されている[9]。また、この頃パクモドゥパ派ではチャンチュプ・ギェルツェンとギェンツェンキャプの間で主導権争いが繰り広げられており、クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポはチャンチュプ・ギェルツェンの要請を受けてギェンツェンキャプの追放に助力した[10]。この後チャンチュプ・ギェルツェンはチベット中央部を制圧する大勢力に成長し、皮肉にもチベットにおけるサキャ派の覇権時代を終わらせる役割を担うことになる[11]

クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポはパクパの血縁であることから厚遇を受けていたようであり、『元史』釈老伝には「至治年間、全国の郡県にパクパを祀る廟を建てさせ、また11の行省にパクパの絵画を送り像を造らせた」とある[12][13]南坡の変を経て泰定帝イェスン・テムル・カアンが即位して以後も厚遇され、珠字詔を以てサキャへ賜っている[14]

クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポの没年について、『元史』泰定帝本紀は「泰定4年(1327年)2月」、『フゥラン・テプテル』も「丁卯(1327年)2月に大都で死去した」としており、双方の史料の記述が合致する[15]。ただし同じく泰定帝本紀泰定3年10月条には「帝師が病のためにチベットに帰還した」との記述があり、実際には10月にチベット帰還の途につき、その道中で泰定4年2月13日[16](1327年3月6日)に急逝したのではないかと考えられている[17]。また、『元史』釈老伝にはクンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポの没後に旺出児監蔵なる人物が帝師となったと記すが[18]、この人物は先述したクンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポの死亡時の混乱に基づく誤解によって生みだされた実在しない人物であると考えられる[19]。なお、『元史』釈老伝は至治3年(1323年)没とするが、この没年は泰定2年(1325年)3月10日発行文書が現存することからも明らかに誤りである[6]

脚注

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  1. ^ a b 佐藤/稲葉1964,120頁
  2. ^ 乙坂1989,30頁
  3. ^ 稲葉1965,133-134頁
  4. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐二年二月]庚子、詔以公哥羅古羅思監蔵班蔵卜為帝師、賜玉印、仍詔天下」
  5. ^ 稲葉1965,135-136頁
  6. ^ a b 稲葉1965,136頁
  7. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[至治元年十二月]辛酉……命帝師公哥羅古羅思監蔵班蔵卜詣西番受具足戒、賜金千三百五十両・銀四千五十両・幣帛万匹・鈔五十万貫」
  8. ^ 『元史』巻28英宗本紀2,「[至治二年十一月]乙卯、遣西僧高主瓦迎帝師」
  9. ^ 稲葉1965,138-139頁
  10. ^ 佐藤1986,102頁
  11. ^ 佐藤1986,102-103頁
  12. ^ 稲葉1965,139頁
  13. ^ 野上1978,217-218頁
  14. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年夏四月]己未、以珠字詔賜帝師所居撒思加部」
  15. ^ 稲葉1965,137頁
  16. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2, 泰定四年二月壬午条による。
  17. ^ 稲葉1965,137-138頁
  18. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「[延祐]二年、以公哥羅古羅思監蔵班蔵卜嗣、至治三年卒。旺出児監蔵嗣、泰定二年卒」
  19. ^ 稲葉1965,138頁

参考文献

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  • 乙坂智子「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第3号、1989年
  • 佐藤長/稲葉正就共訳『フゥラン・テプテル チベット年代記』法蔵館、1964年
  • 佐藤長『中世チベット史研究』同朋舎出版、1986年
  • 中村淳「チベットとモンゴルの邂逅」『中央ユーラシアの統合:9-16世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 11〉、1997年
  • 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
  • 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
  • 野上俊静「元史釈老伝の研究」『石浜先生古稀記念東洋学論集』野上俊静博士頌寿記念刊行会、1978年
  • 稲葉正就「元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として-」『印度學佛教學研究』第8巻第1号、日本印度学仏教学会、1960年、26-32頁、doi:10.4259/ibk.8.26ISSN 0019-4344NAID 130004028242 
  • 稲葉正就「元の帝師に関する研究:系統と年次を中心として」『大谷大學研究年報』第17号、大谷学会、1965年6月、79-156頁、NAID 120006374687 
先代
サンギェパル
大元ウルス帝師
1315年 - 1327年
次代
クンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポ