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クランカーティ伯爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クランカーティ伯爵
Earl of Clancarty
創設時期1803年2月11日
創設者ジョージ3世
貴族アイルランド貴族
初代初代伯ウィリアム・トレンチ
現所有者9代伯ニコラス・トレンチ英語版
相続人なし
推定相続人なし
付随称号ダンロー子爵
クランカーティ子爵(UK
キルコネル男爵
トレンチ男爵(UK)
モットー助言と思慮によって
(Consilio Et Prudentia)
オランダ貴族オランダ語版フースデン侯爵英語版を兼ねる

クランカーティ伯爵(クランカーティはくしゃく、: Earl of Clancarty)は、イギリスの伯爵貴族アイルランド貴族爵位。これまでに2度創設され、第2期が存続している。同族にアシュタウン男爵家がある。

歴史

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マッカーティー家

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コーマック・マクダーモット・マッカーシー英語版(1552–1616)の息子チャールズ・マッカーシー英語版(1570s–1641)は1620年3月24日に騎士爵に叙された後、1628年11月15日にアイルランド貴族であるコーク県におけるマスケリー子爵ブラーニー男爵に叙された[1]。これらの爵位は初代の死後、まず次男ドノー・マッカーティー英語版(1594–1665)およびその男系男子が継承し、それが断絶すると初代の男系男子が継承する、という継承順位が規定された[2]

この継承順位に基づき2代子爵となった次男ドノーは父の存命中にアイルランド庶民院議員を務め、1638年ごろにノバスコシアにおける準男爵に叙された[3]。彼は1641年アイルランド反乱英語版で反乱軍に加わったが、1651年のノックナクラッシーの戦い英語版初代ブロッグヒルのボイル男爵ロジャー・ボイル率いるイングランド共和国軍に敗れ、以降王党派に転じた[4]。そして、王党派としての功績により1658年11月27日にコーク県におけるクランカーティ伯爵に叙された[3]

その孫にあたる4代伯爵ドノー・マッカーティー英語版(1668–1734)ジャコバイトであり、ウィリアマイト戦争でジャコバイト軍に加わったが、1690年のコーク包囲戦英語版で捕虜になり、ロンドン塔に投獄された[5]。彼は1691年に領地と爵位を剥奪され、1694年にフランスに逃亡した[6]。1698年にイングランドに戻って妻に会ったが、妻の弟にあたるスペンサー卿チャールズ・スペンサーが当局に密告したため再び投獄された[6]。のちに出国を条件に釈放され、以降2度と帰国しなかった[6]

4代伯爵の息子ロバート・マッカーティー英語版(1685–1769)は爵位を継承できなかったが、父の存命中に「マスケリー子爵」の儀礼称号を、父の死後に「クランカーティ伯爵」の称号を使用した[6]。彼は1730年代にニューファンドランド総督を務めたが、爵位継承を認められなかったため1741年に移住して、1745年ジャコバイト蜂起に関与した[6]

トレンチ家

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政治家リチャード・トレンチ英語版(1710–1768)の息子ウィリアム・パワー・キーティング・トレンチ(1741–1805)は29年間アイルランド庶民院議員を務めたのち、1797年11月25日にアイルランド貴族であるゴールウェイ県におけるガーバリーのキルコンネル男爵に、1801年1月3日にゴールウェイ県ダンローおよびロスコモン県バリナスローにおけるダンロー子爵に、1803年2月11日にコーク県におけるクランカーティ伯爵に叙された[7]

その息子である2代伯爵リチャード・ル・プア・トレンチ英語版(1767–1837)小ピット派の政治家であり、アイルランド庶民院議員、連合王国庶民院議員、アイルランド郵政長官英語版、アイルランド貴族代表議員商務庁長官を歴任した[8]。このほか、外交官としては在オランダイギリス大使英語版を務め、ウィーン会議のイギリス代表も務めた[8]。その後、1815年8月4日に連合王国貴族であるゴールウェイ県におけるガーバリーのトレンチ男爵に叙され、駐蘭大使在任中の1818年7月18日にネーデルラント連合王国の爵位であるフースデン侯爵英語版に叙された[8]。さらに駐蘭大使の退任にあたり、1823年12月8日に連合王国貴族であるコーク県におけるクランカーティ子爵に叙された[8]

その曽孫にあたる5代伯爵ウィリアム・フレデリック・ル・プア・トレンチ英語版(1868–1929)は広大な領地を相続したが、1891年に領地を担保に多額な借金をして、1907年にアイルランドにおいて、1910年にイングランドにおいて破産を宣告された[9]

5代伯爵の息子にあたる8代伯爵ウィリアム・フランシス・ブリンズリー・ル・プア・トレンチ(1911–1995)は1979年に貴族院で政府によるUFO研究を提唱した[10]

2024年現在の当主は8代伯爵の弟の息子にあたるニコラス・ル・プア・トレンチ英語版(1952–)である[11]

マッカーティー家

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マッカーティー家の紋章

マスケリー子爵(1628年)

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クランカーティ伯爵(1658年)

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トレンチ家

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クランカーティ伯爵(1803年)

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爵位の推定相続人はいない。

出典

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  1. ^ Cokayne, Doubleday & Howard de Walden 1936, p. 440.
  2. ^ Cokayne, Doubleday & Howard de Walden 1936, p. 441.
  3. ^ a b Cokayne, Gibbs & Doubleday 1913, p. 214.
  4. ^ Cokayne, Gibbs & Doubleday 1913, pp. 214–215.
  5. ^ Cokayne, Gibbs & Doubleday 1913, pp. 216–217.
  6. ^ a b c d e Cokayne, Gibbs & Doubleday 1913, p. 217.
  7. ^ Cokayne, Gibbs & Doubleday 1913, p. 218.
  8. ^ a b c d Cokayne, Gibbs & Doubleday 1913, p. 219.
  9. ^ Cokayne, Gibbs & Doubleday 1913, p. 220.
  10. ^ "UNIDENTIFIED FLYING OBJECTS". Parliamentary Debates (Hansard). House of Lords. 18 January 1979. col. 1246–1316.
  11. ^ "Earl of Clancarty". UK Parliament (英語). 2024年5月19日閲覧

参考文献

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