ウィリアム・パルトニー (1731-1763)

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ウィリアム・パルトニーの肖像画。ジョシュア・レイノルズ作、1761年。

パルトニー子爵ウィリアム・パルトニー英語: William Pulteney, Viscount Pulteney1731年1月9日 - 1763年2月12日)は、グレートブリテン王国の政治家、軍人。ホイッグ党所属。

生涯[編集]

ウィリアム・パルトニー(後の初代バース伯爵)と妻のアンナ・マリア(Anna Maria、1697年ごろ – 1758年9月14日、旧姓ガムリー(Gumley)、ジョン・ガムリー英語版の娘)の1人息子として生まれた[1]。1740年から1747年までウェストミンスター・スクールで教育を受け、1748年7月に家庭教師のジョン・ダグラス英語版(のちソールズベリー主教)とともにグランドツアーに出て、ライプツィヒに向かった[2]。しかし、海外滞在中に自身の結婚をめぐって両親と喧嘩になり、1754年4月に仲直りするまで帰国しなかった[2]

1754年イギリス総選挙で父が議席を購入した結果、パルトニーはオールド・サラム選挙区英語版庶民院議員に当選した[2]。1760年9月16日に寝室侍従英語版に任命され[2]、1763年1月から2月までは国王ジョージ3世エー=ド=カン英語版(副官)を務めた[1]

1759年7月に父が第85歩兵連隊英語版を招集すると、パルトニーは連隊の副隊長に任命され、1761年2月に連隊とともにベル=イル占領に参戦したのち、同年11月にポルトガル王国に向かった[2]。パルトニーの不在中に行われた1761年イギリス総選挙ではウェストミンスター選挙区英語版に鞍替えして、無投票で当選した[2]。1763年にスペイン経由で帰国の道につくが、同年2月12日に道中のマドリードで生涯未婚のまま病死した[1]。4月21日、ウェストミンスター寺院に埋葬された[1]

多額の債務を残しており、父が相続を放棄した[2]。その父も1764年7月8日に死去、バース伯爵位は廃絶した[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 23–24.
  2. ^ a b c d e f g Namier, Sir Lewis (1964). "PULTENEY, William, Visct. Pulteney (?1731-63).". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年1月26日閲覧

外部リンク[編集]

グレートブリテン議会英語版
先代
ミドルセックス伯爵英語版
サイモン・ファンショー
庶民院議員(オールド・サラム選挙区英語版選出)
1754年1761年
同職:トマス・ピット英語版 1754年 – 1756年
サー・ウィリアム・カルバート英語版 1756年 – 1761年
次代
トマス・ピット・オブ・ボコノック英語版
ホウェル・グウィン英語版
先代
ジョン・クロス英語版
エドワード・コーンウォリス英語版
庶民院議員(ウェストミンスター選挙区英語版選出)
1761年 – 1763年
同職:エドワード・コーンウォリス英語版 1761年 – 1762年
エドウィン・サンズ 1762年 – 1763年
次代
エドウィン・サンズ
ワークワース男爵