コンテンツにスキップ

アルバータ山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルバータ山
ディアデム・ピーク山頂付近から見たアルバータ山
標高 3619[1] m
所在地 カナダアルバータ州ジャスパー国立公園
位置 北緯52度17分14秒 西経117度28分36秒 / 北緯52.28722度 西経117.47667度 / 52.28722; -117.47667座標: 北緯52度17分14秒 西経117度28分36秒 / 北緯52.28722度 西経117.47667度 / 52.28722; -117.47667
初登頂 1925年日本の登山隊
アルバータ山の位置(カナダ内)
アルバータ山
アルバータ山 (カナダ)
プロジェクト 山
テンプレートを表示

アルバータ山 (アルバータさん、Mount Alberta) はカナダのジャスパー国立公園内、アサバスカ川渓谷上流部に位置する山である。ジョン・ノーマン・コリールイーズ・キャロライン・アルバータから名前をとって命名した[1]

アルバータ山はカナディアン・ロッキーで第6位の高峰である[2]ジャスパーの街から80 km (50マイル) 南東に位置する。

歴史

[編集]

1901年、ドイツの探検家ジーン・ハベルがFortress Lake経由でアルバータ山の基部に到達した。彼が山頂を写した写真は、登山家たちの間に、アルバータ山に対する強い関心を引き起こした。 初登頂は1925年7月21日日本山岳会のメンバーたちによって成された[3]。 そのメンバーとは、橋本静一早川種三槇有恒三田幸夫波多野正信岡部長量の面々である。ハンス・フーレル、H. コーレル、そしてJ. Weberの3人がこの登山隊の案内役を務めた。オーバーハングや連続する垂直な岩棚といった困難を乗り越えた末、登山隊は山頂に到着し、登頂記念として細川護立侯爵から授かったピッケルを突き刺した[注釈 1]。そのピッケルは彼らの登頂の証として山頂に残された。後に続いた登山隊は、このピッケルの各部分をニューヨークのアメリカ山岳会に持ち帰り、その後日本へ帰した[1]

第二登は、1948年にFred AyersとJohn Oberlinの二人のアメリカ人によって成された。1958年には、カナダの登山隊による初登頂がNeil Brown、ハンス・モーサー、Leo Grillmair、Heinz Kahl、Sarka Spinkovaによって成し遂げられた[1]

登山ルート

[編集]

アルバータ山にはいくつかの一般的なクライミングルートがある;[1]

  • 日本ルート (標準ルート) V 5.6
  • 北壁 VI 5.9 A3
  • 北東稜 V 5.10

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 橋本と槇は慶應義塾大学山岳部の創設メンバーで、早川と三田はその後輩にあたる(波多野と岡部は学習院出身)。同部の初代顧問であった鹿子木員信は旧熊本藩士の子であったことから、秩父宮雍仁親王がスキーの指導者を求めたときに旧熊本藩主家当主である細川護立が鹿子木に依頼して慶應の山岳部のメンバーらを推挙してもらった。その際に、秩父宮からアルバータ山が未だに未登頂であるので、日本人が挑戦できないか?と尋ねられ、早川(後に「会社再建の神様」として知られる)が「金さえあれば登れます」と啖呵をきったため、同席した細川から資金の一部の提供を申し出たことをきっかけに登山計画が動き出したのだという[4]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e "Alberta". PeakFinder.com. 2013年7月12日閲覧.
  2. ^ "Mount Alberta". Bivouac.com. 2013年7月12日閲覧.
  3. ^ 「絶壁と格闘十六時間、ついに登頂に成功」『大阪毎日新聞』1925年8月1日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編pp.660-661 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 深野稔生『燃えあがる雲 大島亮吉物語』白山書房、2021年、P164-166.

外部リンク

[編集]