アルデンホーフェンの戦い (1793年)
アルデンホーフェンの戦い | |
---|---|
戦争:フランス革命戦争 | |
年月日:1793年3月1日 | |
場所:ユーリヒ=ベルク公国、アルデンホーフェン | |
結果:オーストリアの勝利 | |
交戦勢力 | |
ハプスブルク帝国 | フランス第一共和政 |
指導者・指揮官 | |
フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト カール・フォン・エスターライヒ=テシェン |
ルネ・ジョゼフ・ド・ラヌー アンリ・クリスチャン・ミシェル・ド・ステンゲル |
戦力 | |
39,000 | 9,000 |
損害 | |
50 | 2,300 大砲7門 軍旗2本 |
アルデンホーフェンの戦い(アルデンホーフェンのたたかい、英語: Battle of Aldenhoven)はフランス革命戦争中の1793年3月1日、フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト率いるハプスブルク帝国(オーストリア)軍がルネ・ジョゼフ・ド・ラヌー率いるフランス軍に攻撃した戦闘。オーストリア軍はルール川の渡河に成功、続いてカール・フォン・エスターライヒ=テシェン率いる騎兵突撃でフランス軍を敗走させ、大損害を強いた。戦闘はケルンから約55キロメートル西のアルデンホーフェンで行われた。
シャルル・フランソワ・デュムーリエ率いるフランス軍が1792年11月6日のジュマップの戦いで勝利した後、オーストリア領ネーデルラントの大半侵略して回った。その後の冬季戦役について、デュムーリエはフランシスコ・デ・ミランダがマーストリヒトを包囲している最中に、ルール川沿いにいたラヌーの軍勢を援護にネーデルラント連邦共和国に侵攻しようとした。オーストリア政府はネーデルラントを回復するためにコーブルクを派遣、コーブルクは3月1日にアルデンホーフェンでフランス軍を敗走させた。直後の18日に行われたネールウィンデンの戦いで両軍は雌雄を決した。
両軍の勢力
[編集]勝敗を決した騎兵突撃はテシェン公が第31ラトゥール竜騎兵連隊(Latour)と第32エステルハージ・フザール連隊(Esterhazy)を率いて行ったものだった。ラヌーの軍勢は7個歩兵大隊、6個騎兵大隊、大砲12門で合計9千人だった。フランス軍は第3、4擲弾兵大隊、リエージュ大隊(Liège)、第14軽歩兵大隊、第2パリ国民衛兵大隊、第29歩兵連隊の2個大隊、第6、12軽騎兵大隊で構成された。ラヌーの副官の1人にアンリ・クリスチャン・ミシェル・ド・ステンゲルがいた[1]。
結果
[編集]オーストリア軍の損害が50人に留まったのに対し、フランス軍の損害は2千人だった。さらに300人が捕虜になり、大砲7門と軍旗2本が鹵獲された。鹵獲された軍旗のうち1本は第29歩兵連隊から鹵獲されたものだった。この敗北によりマーストリヒトの包囲が放棄された[1]。ステンゲルは3日間失踪し、寝返ったと考えられたが後に軍賃金の箱をもち、第12軽騎兵大隊を率いてナミュールに現れた。3月9日、北方軍(左翼)、ベルギー方面軍(中央)、アルデンヌ方面軍(右翼)がルーヴェンでフランシスコ・デ・ミランダの指揮のもとに再集結した[2]。
脚注
[編集]- ^ a b Smith, Digby (1998). The Napoleonic Wars Data Book. London: Greenhill. p. 42. ISBN 1-85367-276-9
- ^ Phipps, Ramsay Weston (2011). The Armies of the First French Republic: Volume I The Armée du Nord. USA: Pickle Partners Publishing. p. 154. ISBN 978-1-908692-24-5
参考文献
[編集]- Phipps, Ramsay Weston (2011) (英語). The Armies of the First French Republic: Volume I The Armée du Nord. USA: Pickle Partners Publishing. ISBN 978-1-908692-24-5
- Rickard, J.. “Battle of Aldenhoven, 1 March 1793” (英語). historyofwar.org. 17 August 2014閲覧。
- Smith, Digby (1998) (英語). The Napoleonic Wars Data Book. London: Greenhill. ISBN 1-85367-276-9