Wikipedia:秀逸な記事の選考/東慶寺 20140111

東慶寺[編集]

賛成/条件付賛成/保留/反対 2/0/0/1 この項目の選考期間は、2014年5月11日 (日) 11:05 (UTC)(2014年5月11日 (日) 20:05 (JST))までです。

(ノート) 《推薦理由》良質な記事の選考/東慶寺 20131211で良質な記事となったものの自薦です。選考通過後に、東慶寺の宝蔵で撮影させて頂いた縁切寺法関連の古文書や観音像や蒔絵の重文などの画像とその説明文を追加しました。ご指摘のあった改行(<br />)は、全てではありませんが、読みやすさを損なわない程度には削除しました。その他文化財の記述を若干補強しています。自分ではもう少し短い方が読みやすいかとも思うのですが、説明したいことばかりなのでなかなか削れません。その替わり、なるべく脚注に追い出し、本文の読みやすさを維持しようと努めたつもりですが、そうなったかどうかは自分では判断できません。皆様の評価(良くも悪くも)をお待ちします。よろしくお願いします。 Ktmchi会話2014年1月11日 (土) 11:05 (UTC)[返信]
【追記】申し訳ありません。参考文献の内高木侃先生の1992年と1999年の書籍の内部リンク用名称が逆になっており別の本を指してしまうミスがありました。検証に入られていた方には深くお詫び申し上げます。---Ktmchi会話2014年1月18日 (土) 10:51 (UTC)[返信]

  • コメント2014年1月13日 (月) 11:38 (UTC) の第 50354135 版を拝見した上で、内容に関連しない範囲で手を入れました(差分)。
  • 手を入れた趣旨は以下の通り。
    • 外部サイトへのリンクは{{Cite web}}を使った形式に変更しました。
    • 文化財関連は国指定文化財等データベース等へのリンクと指定年月日・種別を追加しました。
    • 書誌事項で定期刊行物以外から月をとりました。定期刊行物以外のいわゆる書籍の書誌事項として刊行年はともかく刊行月は基本的にあまり必要性がありません。
    • 一部の写真のキャプションは変更しました。
    • これらの編集に伴い、元の版の情報量を損なわない範囲で一部の記述を変更した部分があります。
    • 文献の段組は変更しました。細かい部分はHelp:箇条書きをご覧いただくとして、視覚障害者向けのスクリーンリーダーが正しく文章の構造を解釈できない可能性のあるマークアップとなっていました。
  • 気になった点ですが、個人運営のサイトへのリンクがかなり含まれています。Wikipedia:外部リンクの選び方にある「何にリンクするか」「掲載すべきでない外部リンク」の間の灰色の部分と言えなくもなく、直ちに除去するべきとも言えませんが、必要でしょうか?賛否の対象とはしませんが、ご一考ください。--ikedat76会話2014年1月15日 (水) 16:05 (UTC)[返信]

条件付賛成 コメント文化財の貴重な写真の掲載や丹念な調査が伺われる内容で、僭越ながら見事な記事と思いましたが、2点で「条件付」と致します

1つ目に内容と構成について。「縁切寺法」に関して、さしあたって手の届く範囲にあった網野善彦の『無縁・公界・楽』(増補版、平凡社 1996)と読み合わせてみました。さて、同書pp.22-23では、本記事でも挙げられている石井・井上ほかの研究者の名を挙げつつ、縁切寺法について、寛保2年の公事方御定書以前には、東慶寺・満徳寺の2カ寺だけでなく、多くの尼寺が縁切寺として機能していたと石井氏の論文を挙げつつ紹介しています。

そうした点からすると東慶寺・満徳寺の2カ寺に縁切寺が縮減されたのは、いわば近世の特定の時点以後に江戸幕府の宗教統制下に矮小化された姿であるとも言えます。その意味で縁切寺法は東慶寺1カ寺に縛られたものではありませんし、アジールや自由の概念を含めた前近代日本における法制史という観点(『無縁・公界・楽』はこうした観点から縁切寺について取り上げています)からは独立した記事とするのが適切であるように考えられます。ここで「適切」というのは、(この記事だけでなく)百科事典としての構成として、という意味です。

具体的には本記事には縁切寺法の概要と東慶寺特有の慣行・慣習を残し、{{main}}で縁切寺法へ誘導するという形式はどうでしょうか。縁切寺法が別記事に分離されたとしても、十分な質量のある記事だと思いますし、現状では概念の主従関係が適切に構成されていないように見えます。

2つ目。研究書の表紙の画像が掲載されていますが…必要でしょうか?キャプションでの書評と併せて、東慶寺の説明に役に立っているとは思えませんでした。--ikedat76会話) 2014年1月15日 (水) 16:05 (UTC)画像を除去していただけましたので、「2つ目」は抹消線を引きます。--ikedat76会話2014年1月29日 (水) 12:13 (UTC)[返信]

お返事は長くなりましたのでノート:東慶寺の方に書きました。あちらの方が議論が長引いても編集が楽なので。よろしくお願いします。---Ktmchi会話2014年1月23日 (木) 14:43 (UTC)[返信]
  • コメント 歴史節と縁切寺法節の検証をしてまいりました。いやはや大変な労作で検証作業も1日では到底終りません。文化財節以降は次に図書館に行った際に検証致します。まずは参考文献について実に徹底的に調べ上げられたものである事に感服いたしました。ここまで調べ上げるとは大変な時間を要したものでしょう。特に鎌倉市史史料編や新編相模国、 新編相模国風土記稿、高木編東慶寺史料などの史料までも徹底的に調べ上げられた努力には感服し脱帽する限りです。井上師や高木氏著作は実によくまとまった良作ですが、Ktmchiさんが纏め上げられたこの記事はそれら井上師や高木氏著作以上のよい構成と分かりやすい良文で書かれ、またそれらの著作と見比べても欠けているものはなく網羅性についてもなんら指摘することは出来ません。ただし、少なからず1次史料を使われています。私も検証してを使われた部分は無理な解釈をされているものではなく適切な内容であるとは思いますが、井上師や高木氏著作などでも言及されていることも一部にはあり、なるべく1次史料より2次資料を使ってくださるほうがよろしいかとは思いますが、わざわざ労力を使ってまで出典を差し替えるまでのこともないかとは思います。文化財節以降の検証作業は行っていないものの、現時点での感想では、秀逸な記事とするのに問題はなく、むしろ、出来栄えとしては既にFAになっている赤血球記事や白血病記事よりもはるか上の出来栄えであろう記事だと思います。ただし、いくつか瑣末な事を見つけましたのでご検討くださりますと幸いです。--ぱたごん会話2014年1月25日 (土) 05:04 (UTC)[返信]
以下の指摘で脚注番号は2014/1/25の版の物です。
  1. 出典提示の仕方ですがKtmchiさんは『何々である資料A[8]によると○○である。』といった出典提示をされていますが、これは『何々である資料Aによると○○である[8]。』でよいのではないでしょうか。こういう提示方が必須ではないにしろwikipediaでは一般的かと。
  2. 『鎌倉時代』節後半「その銘文によると(中略)確実とされる。」の出典を鎌倉市史寺社編343-344にしてよいのではないですか?(足りない部分は注でおぎなってあります)
  3. 『南北朝』節全体の出典は鎌倉市史寺社編343-344でOKですが、ただ、護良親王が殺された地が二階堂であると書いてありましょうか?
  4. 脚注[58]は「以降明治に至るまでの130年間、東慶寺には尼は居たが住持はいないかった。」の部分まで網羅しています。
  5. 脚注[68]井上1995,71では駆込寺の院代が円覚寺に駆込んだとは書いてありますが、朱印のことは書いてない。大久保家の事も書いてない。井上1995,72には大久保家の出だとは書いてありますが、大久保家に戻ったとは書いてません。朱印のことは井上1995,33にありますが、脚注[68]は井上1955,70-71を合わせて提示した方が適切ではないかと 井上1955と井上1995は紛らわしいですが
  6. 脚注[69]井上1955,70には老尼が一人いるだけとは書いてない。
  7. 脚注[155] 石井1965,133-135は間違いです。この部分の出典は井上1955,128-134ではないですか?
  8. 注釈[55] 石井の言葉が「有名である」は大言壮語ではないでしょうか?
  9. 脚注[156] 井上1955,153-155も間違え。この部分の出典は井上1995,86-88もしくは井上1955,143-144(ただしニュアンスが少し違う)
  10. 脚注[159]は『出役達書』節全体の出典ですね?しかし、石井1965,182-183も出典に加えたほうがよろしいかと思います。それと石井、井上、の著作ではアポ取り書(予告書)である出役達書が桐箱入りとは書いてない。高木1992,132には出役達書が桐箱に入れられている「こと」もある。とはありますが。必ず紋入りの桐箱に収められているのは寺法書の方ではないかと。
  11. 脚注[160]短い本文に対して出典のページ数を多く取っていますが、井上1995,101でいいのではないですか?
  • コメント上記のぱたごんさんのアドバイスを受けとりあえず修正してみました。まだ検証作業中とのことですので、修正もれ、追加等ありましたらそのときにでも、あるいは随時でもご指摘ください。【再修正】修正した結果、番号が変わるで「脚注[58] 節名(現61)」という形に修正しました。書き直すたびに自分でも追跡が困難になるので。節名と脚注連番が矛盾したら此処への反映漏れになります。ページ数のような小さい字が苦手でご迷惑をおかけしました。
  1. 出典提示の仕方---まだ漏れはあるかもしれませんが。
  2. 1.1 鎌倉時代(脚注現 9)---了解しました。ただ「鎌倉市史」は私が持っているものと、鎌倉図書館にあるものでは装丁が違ったりするので、ぱたごんさんがご覧になったものと私のものではページがちょっとずれるのかもしれません。「鎌倉時代の東慶寺に関する確実な史料(梵鐘)は・・・」以降鎌倉時代の範囲は私の本ではpp.342-343です。
  3.  1.2 南北朝時代(現脚注11)---出典を追加しました。ただしありあわせの出典です。持ってる本のどれかに竹藪に捨てられた護良親王の首を東光寺の僧が現在の墓所(理智光寺跡の山頂)に埋葬したという言い伝えを書いてあったと思いますが探すのが大変なんで。この本はテーマが違うのでそこまでは書いていませんが東光寺で殺されたとは書いています。東光寺、理智光寺とも旧二階堂村の内です。
  4. 脚注[58] 1.6.2 22世玉淵尼(現61)---脚注を最後に移しました。
  5. 脚注[68] 1.7.2.2 円覚寺被官(現71,72)---この事件の出典をまとめておきます。同じ本はひとつの脚注にまとめておきます。
  6. 脚注[69] 1.7.2.2 円覚寺被官(現ナシ)---これは井上1955,p.73ですね。脚注としては上記に含めます。
  7. 脚注[155] 2.6.1 身元調べ・女実親呼出(現167,168=石井良助1965 pp.123-125, 井上禅定1955 pp.128-134)---すいません、石井良介はpp.123-125です。ご指摘をうけて井上禅定1955,pp.128-134に詳しく書いてあることに気がつきました。最初は御用宿はさらりと済ませようと思っていたせいでしょう。石井良介先生の本で補強をしていたとき付け加えたものです。脚注に両方あげておきます。
  8. 注釈[55] 2.2 近世・江戸時代の離婚(現57)---私は有名だと思うんですけど、でも百科辞典的には「知られている」ぐらいの柔らかいニュアンスの方が良いかもしれません。修正します。
  9. 脚注[156] 2.6.1 身元調べ・女実親呼出(現169,170=井上禅定1955 pp.143-145、井上禅定1995 pp.86-88) ---間違いです。井上禅定1955は143-145です。p.145に「名主に宛て」とありますのでギリギリ嘘ではないですが。井上1995,pp.86-88も追加します。
  10. 脚注[159] 2.6.2 出役達書(現173,174=井上禅定1955 pp.176-178,石井良介1965 pp.182-183)---【再度修正】実際には節全体の出典です。後ろに移動します。「出役達書」が「菊桐御紋の御用箱」については痛い処を。なんと書こうかと悩んだところで、確かに「こともある」です。しっかり者の豪農の兄が妹を駆込ませて、相手は遠いからと自分で出役達書を持っていったことまでありますから。石井良介先生の本を読んで気がついたんですが、私は初期の手続きとはっきり見分けがついていなかったようです。初期には出役達書は無くて飛脚が1発目から寺法書(奉書)を届けていたので混同していました。「菊桐御紋の御用箱」は削除します。程度が不明なら触れることも無いかと。それに院代奉書なら菊桐御紋でもよいけど、寺役人の達書に菊桐御紋は一般的とは思えないので。またそれに関して色々と追記し、画像の位置も変えました。石井良介1965 pp.182-183も追加しました。
  11. 脚注[160] 2.6.3 出役・寺法離縁(現175,176=井上禅定1995 pp.101-106,井上禅定1955 pp.178-194)---「寺法離縁」全体の出典はこれこれ、というような感じです。井上禅定1995 pp.101-106も追加します。後の方には個別の出典もあるので、頭の方の用語に付けておきました。
---Ktmchi会話) 2014年1月25日 (土) 16:02 (UTC) 【連番修正】---Ktmchi会話2014年2月3日 (月) 15:52 (UTC)[返信]
【追記】文化財関係の参考文献『季報東慶寺』は東慶寺サイトにpdfがありました。「参考文献」の該当項にリンクを貼っておきます。---Ktmchi会話2014年2月3日 (月) 15:52 (UTC)[返信]
  • コメント 検証いたしましたが、いくつか検討していただきたいことが見つかりました。
以下の脚注番号は2014/01/03/14:00(UTC)のものです。--ぱたごん会話2014年1月30日 (木) 06:34 (UTC)[返信]
  1. 文化財節や他でもご本尊(釈迦如来)の記述がありません。たしかに東慶寺の本尊は国・県・市のいずれのレベルでも文化財指定はされて無いようですし、禅寺のせいなのか井上師もあまり本尊を重視はしていないようですが、お寺の記事ではご本尊様の事も触れてもいいのではないでしょうか?円覚寺が所属する臨済宗では釈迦如来が本尊のようですが、尼寺時代の東慶寺は独立系との由、なぜ釈迦如来が尼寺時代からご本尊だったのかは井上師などの著作にはなく、調べるのは難しいかもしれませんが、せめて井上師著作で分かる範囲内でも書いてくださればいいのではないかと思いました。
  2. 脚注[83] 井上禅定1955 p.101 は井上禅定1955 pp.80-101とするべきでしょう。
  3. 脚注[142] 江戸時代初期節「江戸時代ほど(中略)示談による離婚になっている。」は長田2001.194-195でカバーできます。しかし、姦通がバレテも以下の長田2001.198-202は単に1例の紹介であって、むしろ長田2001.195に「貫通は親告罪なので訴え出なければ内々でおさまったのである。」とあるので、むしろ長田2001.198-202は余計でこの部分全体の出典を長田2001.194-195にした方がよくないですか?
  4. 脚注[198]木造聖観音立像は太平寺の本尊「だったとされる。」とするべきではありませんか?三山1979.125-128。
また、「後世補われた光背と台座以外は(中略)金箔を細かく切って貼り付ける文様をつけている。」の部分は[198]だけでは書けないので、他に使った出典があるはずです。
  1. 禅寺のせいなのか・・・
    ちょっと笑ってしまいました。いや良くご存じで。建長寺の二世住持は本尊に礼拝すらしなかったと云いますし、鎌倉の禅宗のお寺ではご本尊が撮影禁止になってません。円覚寺との関係では、確かに東慶寺は一本寺で本山は持ちませんが、それは今流に云えば資本関係は無いということです。でも人脈的には、あるいは学閥的には、当時の言葉で言うと法系では歴代住持は円覚寺塔頭黄梅院に師事しています。天秀尼も、次ぎの21世永山尼も。黄梅院は開山覚山尼との因縁か、足利氏との因縁(元旦深夜に円覚寺に行くと黄梅院だけは足利氏の紋)かは判りませんが。話を元に戻して、禅宗で本尊の決まりは無いんじゃないでしょうか。建長寺は地蔵菩薩ですし浄智寺は三世尊像です。それはともかく本尊の記述は了解しました。
  2. 脚注[83] (1.8.2 尼寺終焉後の住職、現同)は井上禅定1955 pp.80-101 >御意
  3. 脚注[142](2.5.1 江戸時代初期、現142,143 =高木侃1992 pp.233-235,長田かな子2001 pp.194-207)、長田2001.194-195にした方がよくないですか?・・・
    まさか長田さんの本まで検証されるとは思いませんでした。頭が下がります。1例だけはまずかったですね。pp.194-195でも良いのですが、実例を増やしてpp.194-207だと「二人とも殺された悲劇の結末が1件、蒸発が二件、あとの4件はどうやら元の鞘に収まったようである」が結論になるのでこちらの方が実感がわくかと。あとは注記の中にある高木侃1992,pp.233-235ですね。出典は二本立てにしようかと思います。普通の読者は出典の本までは手にとらないでしょうから、注記の方で実感を得てもらおうかと。
  4. 脚注[198](3.1 木造聖観音立像)木造聖観音立像は太平寺の本尊「だったとされる」・・・>御意
    [198]だけでは書けないので、他に使った出典があるはず・・・
    「金泥、金箔、土紋装飾と贅を尽くした像」というのは見たまんまで、その後の「 泰平殿は太平寺に由来する」までの歴史部分は探せば出てくると思います。東慶寺サイトに書いていないのは「日本では鎌倉時代後期から南北朝時代ぐらいの鎌倉、あるいはその文化圏にしか見られない」、特に「あるいはその文化圏に」という部分でしょうか。浅見先生の講演会レジュメが見つからないのですが、レジュメにも書いていなかったと思います。講演会のときに浅見先生からお聞きしたことで「鎌倉ではないけど北条氏と深い繋がりがあるところに1~2点あるが、鎌倉文化圏といってよいだろう」とおっしゃっていました。浅見先生に「どっかに書きました?」と聞くことは出来ますが次ぎの講演会は3月30日で2ヶ月も先。加えてこれだけ長すぎるので大幅にカットしても良いかもしれません。『三浦古文化』第20が「土紋特集」のようですが、そこに書いてあるのかどうか。詳しく書いてあったら「土紋装飾」という記事を新設した方が良いかもしれませんね。そういえば、赤字の「矢倉」が残っていました。そのうち黒字(青字?)にします。---Ktmchi会話) 2014年1月30日 (木) 21:13 (UTC) 【連番修正】---Ktmchi会話2014年2月3日 (月) 15:52 (UTC)[返信]
赤字の「矢倉」を解消しました。といっても「矢倉」ではなく「やぐら」という項目が前からあったらしいのですが、そちらを全面改定してリンクを修正しました。---Ktmchi会話2014年3月16日 (日) 03:04 (UTC)[返信]
【追記】 脚注[198](3.1 木造聖観音立像)の件で『三浦古文化』の3つの論文を読んでみたんですが、「日本では鎌倉時代後期から南北朝時代ぐらいの鎌倉、あるいはその文化圏にしか見られない」というのは「土紋装飾は」ではなくて「水月観音菩薩半跏像のようなくつろいだ観音像は」という話だったかもしれません。そのこと以外は3つの論文は浅見先生のおっしゃっていたこととほとんど同じです。きちんと出典を確認しないととんでもない記憶違いが、と思い知らされました。宋風彫刻の伝搬経路については覚園寺の資料がもうひとつあったのですが見つかりません。まあ書いた程度の話なら出典ひとつでも良いかと。ということで聖観音と水月観音をだいぶ追記しました。(宝蔵の文化財写真集の解説は簡略なものでした。)---Ktmchi会話2014年2月3日 (月) 15:52 (UTC)[返信]
コメントご相談した点を検討していただきありがとうございました。また、検証してきました。FA審議としては今回の要望で最後にし、ご点検いただきましたら賛成票を入れたいとは思っています。
  1. 「豊臣秀頼菩提の雲版」節 出典がありませんでしたので、前段は私の方で資料を探して提示して置きましたがご確認ください。また、雲版と表記されています。たしかにぐぐるとコトバンクなどで雲版というのは見つかるのですが、しかし鎌倉市HPでは雲盤、東慶寺HPでは雲板、『鎌倉の文化財』では雲盤、井上1955.110でも雲盤で東慶寺に関する資料では盤もしくは板で版はありません。漢字の意味からしても雲盤もしくは雲板ではないでしょうか?
  2. 「会津四十万石改易事件」節の後半、堀主水の奥さんの子孫が語る後日談の部分(ところが掘主水の妻は確かに東慶寺に駆込んでおり・・以下)は出典提示がありません。この部分の出典は井上1976 pp.29-33だと思うのですがいかがでしょう?井上1976がお手元になければ私の方で出典提示しても良いです。尚、参考文献節では井上禅定 『駆込寺-離婚いまとむかし』 文藝春秋、1976年。となっていますが出版社は文芸春秋ではありません。現代史出版会です。
  3. 2014/2/5 0:45(JST)現在の脚注[78]では「お白洲は東慶寺領の支配者としてのものと思われる[78][注 38]。」となっていますが注釈を外してお白洲は東慶寺領の支配者としてのもので、罪人でもない駆け込み女がお白州に座らせられたわけではない[78]。」にしてはいかがでしょう?誤読を防ぐのに効果ないでしょうか?
  4. 満徳寺はともかく東慶寺では女が寺入り後すぐに夫が離縁状を書いても女は24ヶ月務めなければなりません。ここは夫が離縁状書いたのに何で寺から出れないの?という疑問が沸くところでしょう。石井良助『江戸の離婚』叢書「江戸時代漫筆 第七」明石書店、1991年、p.161には「夫が離縁状を書いたのに、それでも24ヶ月寺入りしていなければならないのは夫の意思に叛いて無理に離婚したのであるから、それ相応の労苦を授けなければならない。という考え方からである」とあります。(著作権侵害にならないように言い回しは変えてあります)。このあたりを追記してはいかがでしょう?
  5. 井上師は「駆込女は寺に入ると言っても出家して尼になるということではない。 24ヶ月後には寺を出て誰とでも結婚できる。 ここがよく誤解される」と言われているのですが、本物の僧である井上師から見たら寺入り女は尼僧の内に入らないのは当然でしょうが、宗教者でもない一般人からしたら、寺に入って外にも出られず寺の仕事と読経に日々では尼同然に見えるでしょう。井上師や石井氏、高木氏著作でも「有髪の尼」に関する川柳が多く取り上げられていますが、一般人の見方は「有髪の尼」です。このあたり、注釈でも、川柳の事とか、触れるのはいかがでしょう?
  6. 東慶寺のシステムは 尼-寺役人-下男など-飛脚-宿がそれぞれ役割をはたしています。飛脚もただ書類を届けるだけでなく、説明やアドバイスをしてくるわけです。なので飛脚は常雇いで寺法に通じているわけです。宿もただ泊めるだけではなく、下調べしたり、女に付き添ったり、女の家族が来たら立会人になったりするわけです。結構システマチックですね。この辺を一節設けてはいかがでしょう?
  7. 「普通の農民にとっては大変な額であるが、それでも親族が協力すれば払えない額ではない」の部分は私はやはり好ましくないと思っています。親族が協力して払うのが普通だと誤解を与えます。井上1995.121では夫の方が悪ければ夫もしくは夫の名主が女の費用の面倒をみたので女は文無しでも心配ないとあります。逆に夫に責任が無い場合は高木1992.177のように「駆け込みが一人あると一身代を無くした」わけで、当然費用を躊躇して駆込めない女もいるはずなのです。江戸時代の貧農は食べるので手一杯で現金収入などほとんど無いです。現代の日本でさえ餓死する人もいるわけです。--ぱたごん会話2014年2月4日 (火) 16:26 (UTC)[返信]


コメント「3.6 木造水月観音菩薩半跏像」の加筆に熱中していてお返事が遅れ申し訳ありません。長くなったのでまた「東慶寺ノート」へ飛ばそうかとも思ったのですが、「石井先生に要出典」とか「"文無しだって女性は心配いらないんです"はリップサービス」とか(本心ですが)書いてしまったので、長く人目に触れるノートは止めました。東慶寺の方に「もうちょっと言いようがあるでしょ!」とか怒られると困るので。まあ怒られそうなことはとっくの昔に本文に書いてますが(笑)。---Ktmchi会話2014年2月6日 (木) 17:50 (UTC)[返信]
    1. 「豊臣秀頼菩提の雲版」節 
      「雲版」は誤植です。全く気づきませんでした。もっとも素直な別名が打板(ちょうばん)ですので雲板とします。でも天秀尼の段階から「雲版」と書いてますね。あちらも修正しました。""A^^;
      円覚寺の僧堂には本当に木の打板が現役であります。4年後には新しい板に変わっていましたが。雲板の銘文が活字になったものをどこかで見た記憶があるんですが見つかりません。出典ありがとうございます。
    2. 「会津四十万石改易事件」節の後半
      脚注で「詳細は天秀尼の会津四十万石改易事件を参照」とし、そちらに出典がありますが、こちらにもつけておきます。「出版社は文芸春秋ではありません。現代史出版会です」 > すいません。コピペして作っているんで直し忘れたみたいです。ありがとう御座いました。
    3. 1.7.3 院代法秀尼「お白洲は東慶寺領の支配者としてのものと思われる」 > 注釈は残しましたが「お白洲は東慶寺領の支配者としてのもので駆込女がお白州に座らせられたわけではない[79][注 38]」と修正しました。
    4. 「ここは夫が離縁状書いたのに何で寺から出れないの?という疑問が・・・」
      > 石井良助大先生のお言葉ではありますが、石井先生に「要出典」ですね【追記:撤回します。1767年(明和5年)に寺社奉行に提出した「事例書」で東慶寺の寺役人がそう説明をしていました。石井良助先生申し訳ありません】。これは東慶寺が特別な「縁切寺」になる前からの「縁切奉公三年勤」の伝統だと思います。満徳寺も最初からではなく、かなり後期になってからそう変わったようです。東慶寺と満徳寺は連絡がありません。満徳寺がそうしていたということは知らないはずです。満徳寺は東慶寺のように寺入時点で「寺法離縁状」を取っていないので「いつでも内済」みたいなことが可能になりますが、東慶寺は強圧的にかならず「寺法離縁状」を書かせますので「離縁状が来たら放免」では全員寺入りはナシということになってしまいます。「足掛け三年縁切奉公」は「寺法離縁状」とセットです。だから「御所」の威厳で「出役達書」とか名主を巻き込むとかで半強制的にでも内済離縁状を書かせようとします。満徳寺にはそこまでの威厳はありません。「御所」を名乗って寺社奉行に怒られるぐらいです。
    5. 井上師は「・・・ここがよく誤解される」と・・・注釈でも、川柳の事とか、触れるのはいかがでしょう?
      > 「注釈」でしたら考えてみます。本文が長くなりすぎているので一所懸命「注釈」に追い出しています。本文はさらっと読めて、「嘘~」とか「何で?」と思う人は「注釈」をお読み下さいという感じで(と言ってもその本文すらかなり長くなって、最後まで読む人がどれだけいるんだろうかと不安なんですが)。
    6. 東慶寺のシステムは・・・結構システマチックですね。この辺を一節設けてはいかがでしょう?
      > 飛脚については「身元調べ・女実親呼出」で「 "女実親呼出" を受けた駆込女の実家が、東慶寺へ来る前に夫と交渉して離縁状をとって"内済離縁(示談)" を済ませてしまうこともある。 実は飛脚がそれを薦める[174]」と既に書いていますし、宿も「この御用宿は単なる宿泊施設ではなく、「身元調べ」を代行し、後から来た夫方との和解、あるいは内済離縁の調停をすることもあり、宿兼東慶寺に対する司法書士、相手方との示談仲介という点では弁護士のような役割も果たした[169][170]」と既に書いていますので一節設けるのはまたまた本文が長くなってしまうのでちょっと腰が引けます。書いてないのは門番ぐらいですが、ネグっても良いかと。
    7. 冥加金と扶持料そのものが実はあまり書きたくないところなんですが。ただ「タダで駆け込めた訳ではない」ということは書かなければならないし。あまり書きたくないというのは史料が少なすぎるんです。何年だか忘れましたが「7両格」という言葉が出てきて「おそらく上臈衆格だろう」なんていわれる。これは書きましたが「扶持料が三格式のどれにも課せられたかどうかについては史料が無い」です。
       網野善彦先生の『無縁・公界・楽』の中で「青谷弥生氏の調査によれば、駆け込み女の出身階級は、農村では一般百姓、都市では店子が圧倒的に多く、扶持金上納額の例はごく少ないといわれているので」(p.25)とあったので、その論文が載っている「日本歴史研究」vol.171 を取り寄せてみましたが、女子大卒論のダイジェスト版でどうもおかしい。少なくとももう一度史料にあたってその分類が妥当なのか確認するまでは使えません。だいたい慶応2年「3両(他2回)計8両」の現在換算額が5万円て何ですか。1976年の論文で米価を換算に使っているんですが。
       「井上1995.121では」の部分で、禅定師が書かれた「江戸時代は五人組制とかいろいろありまして、名主に責任を持たしている訳です・・・そういう連帯責任になっていますから」というのはほぼその通りです。ただ「夫の名主が女の費用の面倒をみた」ということは私の知る限りでは無いと思います。この部分は「離婚した婦人を守る会」とかの人達に「このお寺ではお金の無い女性が駆け込んでも助けてもらえないのか」と突っ込まれたときの話で、上記引用の後の「文無しだって女性は心配いらないんです」はリップサービスでしょう。禅定師はこのとき住職ですから「地獄の沙汰も金次第」とは云えない。この点は高木先生のおっしゃる通りだと私も思います。だいたい縁切寺は地域限定、国単位(武蔵国とかの)で向こう三軒両隣ぐらいで、その範囲内でだって注釈65 に書いたように相模国淵野辺村から、同じ相模国の東慶寺でなく江戸の地頭所(領主である旗本の屋敷)へ離縁を訴え駆込んで「内済離縁」を勝ち取った女房がいます。まあ「内済離縁」なら東慶寺の威圧で勝ち取った場合でもそんなに高くはないですし、その程度なら女方親が貧乏でも五人組とか名主がなんとかしたでしょう。ただ具体的にどう工面したかは古文書にはほとんど残りません。冥加金やら扶持料でなくて離縁の趣意金(手切金)なら、女に金が無かったので年期奉公に出て、その前金を趣意金として夫に払ったという話が満徳寺側の事例にあったと思います。【追記:同じ上州ですが満徳寺の事例ではなくて、名門名主横尾宅へ駆け込んだ年次不明の「つぎ」の事例でした(高木「三くだり半」p.467)。】
       最後に、話の本筋には関係しませんが「江戸時代の貧農は食べるので手一杯で現金収入などほとんど無い」というのは誤解です。「貧農は食べるので手一杯」はそうですが、完全に自給自足ではありません。「食べるものが」ではなくて「農業が」です。農業を営む為に必要な現金支出は結構あります。例えば肥料に魚肥、灰、油粕、糠などを使い、鯨油で害虫退治をします。それで江戸時代の農業生産高・歩留は向上します。灰はともかく多くは現金購入です。なので現金収入自体はある訳です。無ければ倒産です。ただ貧農は「貯金など出来ない」ということなら、多くの場合そうだと思います。
ということで私サイドでは「5」と「7」の書き方が課題として残ります。選考期間はまだまだありますので、ゆっくりと考えます。---Ktmchi会話) 2014年2月6日 (木) 17:50 (UTC)(修正)---Ktmchi会話) 2014年2月7日 (金) 03:35 (UTC) 【追記】---Ktmchi会話) 2014年2月7日 (金) 08:35 (UTC) ---Ktmchi会話2014年2月8日 (土) 12:42 (UTC)[返信]
  • 賛成  瑣末な指摘をたくさんしてしまいましたが、丁寧にご検討くださりありがとうございます。「普通の農民にとっては大変な額であるが、それでも親族が協力すれば払えない額ではない」の部分だけはどうしても気になるのですが、費用が払えなくて、あるいは親族に頼めば払えるが親族には迷惑かけたくなくて離婚を我慢するあるいは自殺した女性はいたと思うんです。ただし、そういう女性は史料に残る事はありませんのでいなかったことになるわけです。裕福な家の女性ならともかく、貧しい女性には費用を親族に頼って駆け込むことはそんなに気軽な話ではないと思うんです。とはいえ、言葉からの印象に関する見解の相違程度のことともいえます。この記事が徹底的な資料検索と深い読みこなし・理解のうえで書かれた傑作記事であることは間違いありません。検証作業にあたってここまで調べ上げられた努力にはとことん敬服いたしました。FAとしてメインページ掲載にして多くの人に読んでもらいたい記事です。--ぱたごん会話2014年2月7日 (金) 12:15 (UTC)[返信]
7番の件はどうも私の方があさっての方向を向いて反論していたような気がしてきました。「普通の農民にとっては大変な額であるが、それでも親族が協力すれば払えない額ではない」を私は注釈85に書いた蘭方医の「家内一統の嘆き気の毒千万、目も当てられさる事也」を思い浮かべながら書いていたんで「絶対に手が届かないという訳でもないが、平均的な農民にとっては大変な額」というつもりでした。でも現行の表現だと「大金は大金だけど、でもまあ、誰でもなんとかなる金額」という風にも読むことができますね。それは違います。平均以下の農民にとっては15歳の娘を7年奉公に出してやっと手に出来るぐらいの金額ですので。書いた本人は人にどう読まれるかということになかなか思い至らないという「あれ」に陥っていたような気がしてきました。上記の一文は必ず直しますのでしばらくお時間を下さい。---Ktmchi会話2014年2月7日 (金) 15:53 (UTC)[返信]
賛成票を頂いてはおりますが、どうも7番の件が残ったままでは後ろめたくて実感がわきません。「2.8 出入三年満二十四ヶ月の縁切奉公」を修正してみましたので、審議継続中のつもりでコメント頂ければ幸いです。---Ktmchi会話2014年2月8日 (土) 14:40 (UTC)[返信]
ありがとうございます。例えば、冥加金は8両である<ref group="注">18世紀においての1両は人件費を基準にすると現代の32万円程度、米価を基準にすると現代の6万円程度の価値ではないかと日銀・貨幣博物館では推定している。</ref>。くらいにして、その金額が高いか安いかという執筆者の価値判断を読者に提示しないほうがいいのでは?と思うんです。--ぱたごん会話2014年2月9日 (日) 04:58 (UTC)[返信]
アドバイス有難う御座います。事実をそのまま述べて自分で考えてもらうというのは良いことだと思います。ただし「○○を基準にすると○○万円程度」とはせずに、ちょうどこの1838年(天保9年)頃、19世紀前半の関東の農村では収入はこれぐらい、1両で買えるものはこれぐらい(各複数例)としました。生活の違いから、収入で考えて○○万円程度と、買えるもので考えて○○万円程度は全く別ものだと思っているので。---Ktmchi会話2014年2月9日 (日) 12:46 (UTC)[返信]
変更を確認しました。もともと極めて優れた記事であることは間違いなかったのですが、重箱の隅をつつくような事を申し上げて申し訳ありません。しかしながら、ご配慮によって優良な記事にさらに磨きがかかったと思います。--ぱたごん会話2014年2月9日 (日) 14:20 (UTC)[返信]

条件付賛成(条件付賛成票を賛成票に変えます) 駆込寺って時代劇なんかで見ることはありますが、この記事を見てよくわかりました。お寺そのものの歴史と離婚の関係、今現在のお寺の説明t説明すべきことはすべて説明されていると思います。参考文献の著者も調べてみましたら東慶寺の有名なご住職さんと、江戸の法制史研究の第一人者で文化勲章を受章された石井良助博士、高木侃博士も満徳寺研究のスペシャリストでひいては寺法離婚の専門家とすごいところの方々の著作を中心に多くの文献をお調べになっています。すばらしいと思いました。ただ、境内の説明のなかの白蓮舎(立礼茶室)や松ヶ岡宝蔵や庭園の四季の部分は出典がないように見えます。ぱたごんさんがチェックなさったようで大丈夫なのだろうとは思いますが、出典を明記したほうがいいと思います。あと、たぶんKtmchiさまが実際にお寺で見たり体験なさって書かれたのではないかなって記述もあります。Ktmchiさまが直接ご覧になったのだから真実なのでしょうが、wikipedia:検証可能性的にはどうなのでしょう?あと、2014年の参観ガイドみたいになっている部分がありますが、 挿し花体験教室や写経会は今年は行われても、何年先もずっと行われているとは限りませんし「年に2回、梅の頃と花菖蒲の時期には茶店として一般に公開される。」も10年後もそうなのかはわからないわけです。方針のどこかに古くなる表現は使わないみたいなことが書いてあったと思いますが、このあたりをご検討くださらないでしょうか?--朝姫会話2014年2月17日 (月) 05:05 (UTC)[返信]

自分のサイトに時間を取られてしまってお返事が遅れ、申し訳ありませんでした。アドバイスありがとうございます。白蓮舎や松ヶ岡宝蔵その他について出典を追加しました。「武者小路千家流の体験茶道、同略盆点前教室、志野流の体験香道」は出典にあげた「季報」に書いてある程度の表現になおしました。
「年に2回、梅の頃と花菖蒲の時期には茶店として一般に公開される」も出典に「季報」をあげておきましたが、ただ、10年先はともかく、私のHPに最初に登場したのは2005年で9年前です。それ以前はお寺の写真など撮っていなかったので知りませんが。でも「挿し花体験教室」は今の先生が来なくなったら無くなっちゃうか「生花教室」になっちゃうかもしれませんね。
「2014年の参観ガイドみたいになっている部分」「庭園の四季」は確かに参拝者の目を意識して書いたところがあります。よく「お勧めの時期はいつごろ?」とか聞かれることがあるもんですから。「彼岸桜が見事であり」「ガラス戸の前の紅梅の古木は見事で」などは確かに観光案内的ですね。そういう表現は削除しました。「鎌倉の紅葉は関東山間部に比べると条件は悪いが」も実際に毎年写真を撮っている者としての、東慶寺だけでなく鎌倉全体の実感なんですが「出典は?」と聞かれるとそんなこと文章で読んだ覚えはないので削除しました。残っているのはいつ頃どういう花がどういう順番に咲くかですが、無理やり出典をあげることもできますが。「東慶寺花暦」という小さなパンフレッドが東慶寺の受付においてあるので。あるいは「庭園の四季」は文言なしのフォトギャラリーにしてしまうという手も。画像に語らせるというのも案外良い手かもしれないと思い出したのですが、どう思います? ---Ktmchi会話2014年2月20日 (木) 17:03 (UTC)[返信]

賛成 出典の追加見ました。ありがとうございます。とてもすばらしい記事で秀逸な記事にふさわしいと思います。条件付賛成から賛成に変えます。--朝姫会話2014年2月21日 (金) 05:48 (UTC)[返信]

反対 縁切寺法の項目で不満が残ります。離婚と離縁を混同した記述があると存じます。また金銭的なことがらと処罰的なことがらとの区別もわけて書かれてもいません。さらに、ヨーロッパの教会と国王との二重支配の中での結婚制度と日本の政教分離の婚姻制度の比較などは、制度的に無意味な比較でございましょう。幕藩体制の中で、幕府法が全ての藩で適用される上位法であるかのごとき誤解を招く記述がございます(例 法理は「御公領と御私領とハ訳も違可申」ー>「前橋藩の江戸藩邸はこれを断ると幕府の評定所で審議されて「寺法之通」りに裁決されるはずだから断れないと国元に伝えるー>「裁決されるはずだから」では結果はわからないー>ただの藩邸の政治的判断)。総じて、この縁切寺法の部分を読んでも江戸時代の婚姻も離婚も寺の位置づけも理解できません。また、離縁状をもらうために通行手形が簡単にもらえるのか?など根本的にイメージとしても理解できない部分が多数あります。申し訳ございませんが反対せざるを得ません。--HASIDATE会話2014年4月4日 (金) 00:04 (UTC)[返信]

ちょっとまった。このHASIDATEさんという利用者は、Wikipedia:コメント依頼/HASIDATE 2013年12月が提出され、多くの利用者からその行動を見直すよう忠告されている最中です。しかし、この発言[1]を複数の利用者に批判されて以降、沈黙を保ってきました。自身の会話ページによせられた質問[2]にも、無回答です。そんな状況下で、期限まであと1週間ほどにせまった選考に、「根本的にイメージとしても理解できない部分が多数」などという反対票をつけるこの行為を、善意に解釈することは極めて困難だといえるでしょう。自身に向けられた批判は無視し、他者には注文を付けるというHASIDATEさんの行動に、まじめに記事を書いている利用者の皆さんが付き合う必要はありません。というわけで、この反対票は無効化、あるいは無視することを提案しておきます。--211.3.201.64 2014年4月5日 (土) 14:05 (UTC)[返信]