Wikipedia:井戸端/subj/Wikipediaの記事を要約して記事に加筆してよいか

Wikipediaの記事を要約して記事に加筆してよいか[編集]

ノート:樺太朝鮮人虐殺事件で話題になっていることなのですが、記事を要約して記事に加筆する行為は問題ないのでしょうか。具体的には今回以下のような編集行為について判断を求めたいと思います。

  1. ある利用者が樺太朝鮮人虐殺事件に記事に挙げられている出典を確認せずに、記事内容を個人的に要約した文を記事に加筆。
  2. その加筆に<ref>タグを用いて、元の記事内容と同じ出典を加筆。
  3. しかし、結果として内容に誤りがあり、加筆された箇所は検証可能性を満たしていない。

この行為の3.は明らかに問題だと思われるのでここは争点にならないと思うのですが、1.と2.の行為も私には問題のように思えます。他所で指摘しているのですが、1.と2.のような行為は、元の記述が出典を読み間違っていた場合などを考慮すると誤った記述をウィキペディア内に拡散させ、議論もそれによって拡散されるおそれがあり修正をめんどうにする可能性がある気がします。こういう場合、やはり出典が明記されているのですから、出典を確認して加筆するのが普通だと思うのです。しかし、私の議論相手はGFDLの記事継承によって内容の改変が認められているので、出典のある記述を出典を確認せずに要約したり改変したりすることはウィキペディア上何の問題もないのだという主張をしています。果たしてこのような主張は成り立つものなのか、皆さんに意見を聞きたいです。--Kanbun 2011年2月25日 (金) 13:02 (UTC)[返信]

その御仁が「出典を確認していない」旨を明らかにしたのであれば問題外ではないでしょうか。おそらく近接した問題だと思うのですが、他言語版からの翻訳などでも元記事についた出典の内容を確認していない事例がほとんどではないでしょうか。こういう場合も本来であれば元の出典に当たってから編集すべきなのでしょう。気をつけたいと思います。--Rasalghul 2011年2月25日 (金) 13:31 (UTC)[返信]
コメント示されている情報源にあたらず項目を越えて記述を整理することを認めないってのは、ちょっと高望みしすぎじゃないでしょうか。情報源にあたるのが望ましいのは言うまでもないですが、他の記事にあったものを移動したり翻訳したりということまで認めないとしてしまったら、大変なことになると思います。ここは、ひとまず元の記事の執筆者に対して善意にとるところではないかと。
元の記述が出典を読み間違っていた場合、誤った記述をウィキペディア内に拡散させることで、その間違いに誰かが気づくこともある。ここで問題とするべきは、誤った内容を書いた人じゃないですかね。
加筆にrefタグを用いるかどうかはともかく、元の記事内容と同じ出典を加筆していないと、出所がわからなくなってしまう。それはむしろ付けないとダメ。
で、今回の問題は、結局のところ要約が適切かどうか、じゃないでしょうか。元の記事にある記述が情報源と比較して正しい場合でも、要約がまずければ情報源にあるものから離れていくこともあります。原則として、情報源に当たるべきではあるとしても、元の記事にある記述に沿っているなら、あまり離れないでしょうし、そこは分量とか、記述内容など、ケースバイケースで判断することになると思います。
「結果として内容に誤りがあり、加筆された箇所は検証可能性を満たしていない」のならば、誤りを正し、加筆部分に問題があれば除去する、代わりの情報源を探す、あるいは求める、という対応で足りるのではないでしょうか。
なお、GFDLは関係ない。記事内容を個人的に要約した文が、元の文章に似てれば、複製権の侵害になるけど、履歴を保存してれば著作権上の問題は回避できている。ただし、GFDLは内容の改変を認めるけれど、それは著作権上の問題を生じさせないというだけであって、百科事典の記事としていいかげんに改変してもいいということではないです。--Ks aka 98 2011年2月25日 (金) 13:52 (UTC)[返信]
お二方にご意見を頂き、ありがとうございます。とても参考になります。私が以上のことについて井戸端で意見を募りたいと思ったのは、議論でのこともあるのですが、翻訳記事を手がけた際にじつは元の外国語版が結構細かい部分で内容がいい加減ということも多々あり、出典を確認すると明らかに誤読だろうというものもあり、また出典が古くて邦文文献で確認してもより新しい情報が確認でき、誤りとすぐにわかるものも多いということがわかって、ちょっとした問題意識が生じたということもあります。ウィキペディアでは更新回数が少ない記事ほど誤謬が放置される傾向にあり、利用者がおそらく最大であろう英語版でも状況は変わらぬようです。善意に取るか悪意に取るかではなく、善意でも起こりうる誤読というものがあって、それは翻訳過程でも生じうることですから、そういうのを非難する形ではなくて、うまく注意喚起する方法などはないだろうかと考えていました。また記事の継承の際も出典のついた情報をそのままコピーする場合でも、そのコピーされる部分が文脈上のつながりによって意味が担保されているということもありえるわけで、出典を確認せずにそういうことをして検証可能性が維持されるのだろうかと疑問に思ったわけです。ただ、出典情報が残っていれば検証は可能ですから、コピーであれば問題ないかなと思いますが、元の内容を改変した場合は、本当にその要約が正しいかというような、ちょっと複雑な問題を生じさせる気がします。いずれにせよ最終的には編集者それぞれの判断となることはそうなのでしょうが、現状の方針文書などではこういう細かい問題はあまりカバーされていない気がしました。今後のために議論を積み重ねておけば問題も減るだろうと思いますので、他の方の意見も忌憚ないところを聞きたく思います。--Kanbun 2011年2月25日 (金) 16:22 (UTC)[返信]
ああ、そこまで踏み込むのですね。

転記、翻訳、元の記述から合理的と思われる範囲の要約については、もともとの記述自体が持つ質的な問題を下げることなく、その項目に必要なことを追記していることで、ウィキペディアの発展に繋がる、と受け取るのが良いと思います。これまでより良くなっているか、いないかでの判断。「これまで」について、古い情報源を元にしていたり、情報源を誤読していたとしても、それが「これまで」の達成点だったということ。そこからさらに質的な向上をはかるのは、転記や翻訳をした人でなくてもいい。語学力がある人が翻訳をして、その分野に関心がある人が日本語文献で情報を確認し、通暁した人が現れれば、他言語版にあった情報源も含めて全体的に査読・修正する、というような役割分担があったほうがうまくいくこともあるでしょうし。

これまでは、ある程度項目数を増やすということが重視されたり、検証可能性などの方針を周知し、遵守することが強調されたりしてきていて、それも継続しないといけないけど、ぼちぼち記事をよりよくすること、へと移行する時期なのかなとも思います。重要な方針から受け入れられない、みたいな話ではなくて、方針の意図するところを勘案しながら、方針やガイドラインの枠内で、よりよい記述とはどういうものか、どっちの書き方のほうがよいかということを、執筆者間で話し合う時期、というか。
そういうレベルでの、注意すべき点をまとめたガイドラインやチュートリアルがあってもよいかもしれません。--Ks aka 98 2011年2月25日 (金) 18:56 (UTC)[返信]