Wikipedia:井戸端/subj/翻訳記事に関する雑談(翻訳記事を投下されると、その後の加筆がしにくいと思いませんか?)

翻訳記事に関する雑談(翻訳記事を投下されると、その後の加筆がしにくいと思いませんか?)[編集]

雑談です。本格的な議論というより、気楽な感想ぐらいの感じで。

私も記事の翻訳をいくらかやります。なので、記事の翻訳も大変な作業だということはわかっているつもりですし、大記事・出典がたくさんつけられている長大な記事を翻訳する方には敬意を払っているつもりです。

でも、翻訳記事を投下されると、困るという感じもするのです。それは出典との兼ね合いです。多くの場合、立派な記事であればあるほど、英語版には英語の文献が出典として示されています。それがネットで容易に閲覧可能であればいいのですが、多くの場合、紙の本で出版されているものは検証が容易とは言い難いです。

そのため、翻訳記事をそのあと加筆したり改稿しようと思っても、その英語文献を確認しないと、付けられている出典が一体どこからどこまでを裏付けているのかわからなくなって、ちょっと手を出せない感じになってしまうと感じています。個別的な事情はありますが、記事の主題によっては日本語文献でもじゅうぶん対応できるようなものでも、英語の文献が示されていると、手を出せない感じになってしまうと思うのです。

記事の品質にもよるのでしょうけれど、英語版の記事だって、必ずしも出典と文章が適切に対応しているとは限らないです。英文は長い関係節なんかを引き連れていることがあり、段落の末尾に1つだけ出典がついてるような場合に、なんとか資料を取り寄せて確認してみると、その段落のほんの1フレーズしか裏付けていない、なんてことは珍しくないです。しかし資料を取り寄せない限りそれはわからないし、日本語版利用者の多くにとって、資料を取り寄せるというのはそこそこハードルは高いはずです。

たとえばですけど、同じ主題を取り上げた日本語文献があって、それである程度出典を整備できるような場合には、検証のハードルが高い英語文献を思い切って取り除いて日本語文献に置き換えてリライトする、というのは、どう思いますか?許容されるでしょうか?理屈からいくと、それは英語文献を検証しないまま取り除くということになるので、ダメなことという感じもするのですが・・・。

もちろん、利用者によっては英語文献にアクセスできるよという人もいるでしょうし、なんなら日本語文献だってアクセスが容易ではないものもたくさんあります。なので、線をひくのもむずかしいところはあると思いますが・・・。

もちろん、翻訳するなという話ではなく、どうやって折り合いつけたら良いのかなあというところなのですが・・・。--柒月例祭会話2017年10月18日 (水) 08:34 (UTC)[返信]

コメント 確かに、自分が入手出来る文献からの加筆とそうでない元の翻訳文章で齟齬が発生した場合の対処、という点では同意出来ます。別に翻訳記事に限らないと思いますが。その場合は、私は『両論併記』として「しかし、こっちの文献にはこうあるよ」と書き足す方向性で調整しますね。どちらにせよ「翻訳元の他言語文献にも、日本語文献にもアクセス出来、理解出来る編集者が対処すれば良い」のですから、仰る事例が現れたならば「(自分の能力不足を認めて)スルーしてしまう」のも有りかなあ、と思います(WP:NOTREQUIRED)。--Nami-ja(凪海) 会話 / 履歴 2017年10月18日 (水) 10:39 (UTC)[返信]
コメント 追記 そういうときこそ「ノートに一言、文献を添えて(自分はちょっと書くには敷居が高いんだけども、とりあえず)情報を残す」という使い方も出来ると思いました。--Nami-ja(凪海) 会話 / 履歴 2017年10月18日 (水) 10:41 (UTC)[返信]
コメント 㭍月例祭さんは「英語」と書いておられますし、翻訳元が英語版ということが多いと思うので、「英語」という表現で書きます。元の版が「韓国語」「中国語」などのときは読み替えてください。㭍月例祭さんが示しておられる例から考えると、問題となるのは英語文献が「脚注」ではなく「参考文献」とだけ示してある場合のようです。そういうときは、元の文章はそのままにして㭍月例祭さんの書いた文章のもとになった日本語文献については「脚注」として示されればよいのではないでしょうか。あるいは元の文章と矛盾する内容を書くことになるかもしれませんが、そのときは「××とする見解もある」というような表現で複数の見解があることを示されるのがよいと思います。また、英語版が間違っているという確信があるなら、英語版の方を編集し、日本語の文献を「脚注」に記載して英語版参加者の意見を問えばよいと思います。115.37.204.3 2017年10月18日 (水) 14:40 (UTC)[返信]
コメント 私自身何度か翻訳記事を作成しているので、その個人的経験から。私としては信頼できる日本語文献・資料を元にした書き換えは歓迎しています。その方が日本語版の利用者には親切だと思いますし。私自身、翻訳後に別の出典を探して記述を追加したり変更したり、ということは何度かあります。翻訳する時にはできる時には出典元を読んで確認するようにしているのですが、全ての出典に対してそうしているかといわれれば……うーん。どちらにせよ、自分が翻訳・執筆した記事を確認・精査してくれるというのとてもはありがたいので、どうぞお願いします。と考えています。ただ、全く逆の内容となるのであれば、外国語版の出典も確認する必要があるし、場合によっては両論併記でしょうね。そのへんはケースによるのではないかなあと思います。--Strangesnow会話2017年10月19日 (木) 01:07 (UTC)[返信]
コメント 大作を一から書けて、しかも翻訳もできる方ならではの贅沢な悩みですね。そのような大ベテランさんに「困る」と言われてしまったら、私など縮こまってしまいます。ご指摘の点のいくつかは、翻訳記事であろうとなかろうと、基本的には共通の問題点であるように思います。ある日(翻訳でない)大型記事がどーんと投稿されてたくさんの紙媒体が出典として示されていたなら、それらを調べるのが大変なのはやはり同じでしょうし、記述内容と出典との対応が必ずしも適切ではない可能性が潜んでいるのも同じです。しかし、そこに外国語からの翻訳が絡んでくれば一段とハードルがあがって難儀だというのはまったくその通りで理解できます。
とはいえ、たとえば英国の歴史的重要人物の誰かが主題なら、膨大な量の英語文献が使われた記事が出現するのはある意味仕方ありません。いや、そこまで重要人物なら日本語でだって文献があるはずで、それを元に記事を書けるだろうと言われてしまいそうですが、そうは言っても一人でこなせる量は限られています。運悪く(?)翻訳記事が先に投下されたなら、地道に加筆していくか、あるいは別の主題に着手するというところでしょうか。柒月例祭さんの実績を拝見するに、どちらでもできそうな方だとお見受けします。
出典へのアクセスについては、ここ最近私が見た(英語からの)翻訳記事ですと、原文の出典として挙げられている書籍がGoogle Booksでかなりの部分をプレビューで読めるものがあります。案外、日本語の書籍よりもアクセス性がよいかもしれません(英語を読めないといけませんが)。また、著作権切れになるほど古い文献であれば、がっつり全文をインターネットで読めるものも少なくないです。特に古い歴史記事にその傾向が強いようで、著作権切れになっていようものなら容赦なく英語版Wikipediaにそのまま使われていたりする場合もあります。他方、著作権が生きている比較的最近(~数十年)の歴史関連書の場合には、著作権侵害を回避するためだと思いますが、できの悪いパラフレーズが大量に持ち込まれているケースが見受けられます。ときには、英語版Wikipedia記事の段落ひとつやふたつは丸々パラフレーズというのもあり、英語でも意味があいまいになったり、誤解を招くようなことになったりしています。こういったものを翻訳しているのですから、日本語で意味不明になるのは当然の成り行きでしょう。
私はと言えば、せっかく翻訳がなされているのだから原文が忠実に訳されているかどうかを見てみようと思い始めたのが最近のことなのですが、とてもじゃないけれどカバーしきれないほどに修正したい点があって、よくよく考えれば自分もちょっと違う角度から「何だか困る」と思っているけれど、結局これはWikipediaというプロジェクトがボランティアであることを考えればしょうがないんだろうなと思い始めているところです。--薬師末 業会話2017年10月19日 (木) 15:10 (UTC)[返信]
コメント頂いた皆様、ありがとうございます。
薬師末 業さんがおっしゃったように、翻訳を読んで気になったとは言っても、実際に手をつけるとなるとかなり大変だというところはあります。それはすなわち、翻訳をなさった方はその大変な作業をボランティアでやったのだ、ということであり、その方への感謝や敬意は当然あります。その感謝や敬意が「遠慮」になることもあり、そこらへんも気にしながら、バランスとりながらだなあと思っています。
日本語出典があると言っても、実際にそれを用意して文を書くというのはそれなりに大変なことですし、本当にそれが遂行できるならやればいいだろうとは思いました。(実際には、そうは言ってもなかなか実現しない、というところです。)
話は少し逸脱しますが、「気になって」いろいろ調べ始めると芋づる式で色々出てきてしまって、気になることが増えていって、結局手がつけられなくなる、ということはよくあります。そこらへんをどこで見切りをつけるかが難しくて、1から100までようやく理解していざ書いてみると、こんなの誰も読まないだろうというものになっちゃいがちです。どこまでで抑えるか(詳述しないか)の判断って悩ましいと思っています。そういうときに他言語版をカンニングしちゃうということは、私もよくあります。--柒月例祭会話2017年10月24日 (火) 09:38 (UTC)[返信]