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検証可能性は満たしてないが正しさは保証されている記事について[編集]

検証可能性を満たしていない記事について、その正確性をその主題となる本人が保証している場合ってどういう扱いになるんでしょうか?

具体的には三橋貴明の記事なのですが、履歴や内容から察するに、ここにある(特に)無名時代、2ちゃんねる時代の記述というのは、(おそらく)当時のことを知っている記述者が書いた物で、これ自体は検証可能性を全く満たしておりません。が、後日、これを読んだ三橋氏本人が自身のブログで記述の正しさを保証しており、当該記事にはそのリンクが張ってあって、これを持って検証可能性をパスしているかのような印象があります。

ウィキペディアは事実かどうかではなく、検証可能かどうかなので、おそらく問題だと思いますが、何分初めてみるケースなので意見が欲しいです。--EULE 2009年8月19日 (水) 01:09 (UTC)[返信]

逆じゃないですかね。本人ブログは信頼できる情報源ではないが、限定付きの出典としては使えるという位で、正しさが保証されているとは言えず「正しさをブログで本人が保証している」と出典付きで記述すべきでしょう。johncapistrano 2009年8月19日 (水) 01:38 (UTC)[返信]
貴方の疑問への答えは「正しさはまったく保証されていない」ってことですかね。この件は別としても本人のブログなんて(色々な意味で)まったくあてにならないですよ。それならそれで百科事典的に記載はできるんですけどね。--シャルル 2009年8月19日 (水) 01:47 (UTC)[返信]
三橋貴明氏は単行本を出されているようなので、その本の出版社が著者のブログサイトと紹介していれば、本人の証言に対する根拠として、それが使えると考えます。そうでなければ著者と同一人であるという証明にならないので著者本人のサイトと認定する根拠がないです。--あら金 2009年8月19日 (水) 01:50 (UTC)[返信]
記事そのものについても出典のない執筆者個人による論評や考察で構成されており、Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:中立的な観点に抵触する内容に思えます。--Web comic 2009年8月19日 (水) 01:57 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。それで、ブログからでは本人かどうかわからないという意見についてですが、この件については、そもそも三橋氏はネットを中心に活動されていたこともあって、本人の弁であることは間違いないと考えられます。確かに本来ならばブログは(記述者の素性も含め)信用たる情報源にはならないですが、今回の件に関しては、その主題の特性上、必ずしもそう言い切れる物ではないのが、今回、質問に至った1つの側面でもあります(とはいえ、ブログという形態が持つ問題点は考慮されるべきですけど)。
で、そのような観点が絡むことながら、本題は、外部からその内容の正しさを保証し、かつ、それについての出典はある場合に、大本の内容はどのような扱いに処すべきかというのが質問の主旨です。きっかけはあくまで三橋氏の記事ですが、一般論的な疑問です。ブログで問題があるというなら、ちゃんとした出版社から出た書籍に書かれていたでもかまいません。
中立的観点などにしても、そもそも現状には問題が多いと思い手を入れようとした矢先にこの疑問に当たったので。--EULE 2009年8月19日 (水) 02:14 (UTC)[返信]
本人のブログという点は疑いがないという仮定を受け入れるなら、問題ないと思います。方針を参照するなら、Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトWikipedia:存命人物の伝記#本人を情報源にする場合あたりでしょうか。ただし、人物や出来事への論評部分は別の情報源が必要となる。もちろん他の情報源を探すのが望ましいし、内容として矛盾する第三者の情報源が出てきた場合は、またその時に考えるということになります。--Ks aka 98 2009年8月19日 (水) 02:55 (UTC)[返信]
そもそも本人がこれは正しいと認めているってことが「正しさが保証されている」ってことにはまったくならないんですよ。その発表の場が書籍だろうがブログだろうがね。検証可能性についてはブログは原則適切な情報源とは認められないが関連分野について自主公表した場合は除かれるってありますけどね。内容がどのようなものによるかで個々の判断を下すべきだろうけど、よっぽどのことが無い限りブログを検証可能な情報源とは認めるべきじゃないでしょうね。--シャルル 2009年8月20日 (木) 00:23 (UTC)[返信]
ウィキペディアは原則、Aという記述があったら、A´という出典を必要とします。このA´によってAという記述の正しさ(独自研究ではないこと)が保証される。そして通常、このA´が無い場合、Aという記述は、要出典タグを付けるか、あるいは除去しても問題が無い。今回の事例は、Aと言う記述に対して、A´という出典は無い。けど、Bという記述がAの記述の正しさを保証し、これにB´という出典がついている。で、この時、大本のAという記述にはどういう対処をしたら良いかという質問です。
>シャルル氏
外部から記述内容の正しさを保証するということ自体が無意味であると受け取りますが、それならAという記述は通常の出典が無い物として扱っても問題は無いってことですか?--EULE 2009年8月20日 (木) 09:30 (UTC)[返信]
単純思考ですが、Aの記述をB´を出展と使えるように修正すれば良いのではないかと思いました(書き方を間違えると芸能人の項目にあるような「出展:本人が番組内で語った」になってしまいますが・・・)--117.53.9.242 2009年8月21日 (金) 18:56 (UTC)[返信]
ちょっとニュアンスが違うけどWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成により出典の無い物としてとりあつかう場合も出てくるでしょう。だいたいそんな回りくどいことしていないで出典を出せばいいだけ。出典が出せないなら記述するに値しない。--シャルル 2009年8月24日 (月) 02:53 (UTC)[返信]

最近、記事の内容が真実でなくとも検証可能性さえ満たしておればよいとする論調があるが、これは本来百科事典としては怪しいことと考えます。検証可能性を満たしながら事実を追求してゆくのが本来であり、出典がブログであろうが週刊誌であろうがその中に真実が見えれば執筆してゆけば良い。各種出典から真実を読み取るのが、執筆者としての判断であり責任と思います。その記事に他人が追加執筆しても、それはあとからノートで議論してゆけばよいこと。真実の記事が書かれていることが、百科事典として最も重要。--金銀蝋 2009年8月20日 (木) 21:36 (UTC)[返信]

> 最近、記事の内容が真実でなくとも検証可能性さえ満たしておればよいとする論調があるが、これは本来百科事典としては怪しいことと考えます。

ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。 — Wikipedia:検証可能性

方針不理解[1]。--116.0.141.96 2009年8月22日 (土) 02:52 (UTC)[返信]

方針不理解ではなく、現状のウィキペディア方針がおかしいのではないかとの問題提起をしています。現状は単にウィキペディアを管理しやすくするための方針であり、これではウィキペディア辞典を充実するのに不十分です。検証可能性は満たしているが、内容が明らかに矛盾している怪しげな記事がウィキペディア内に如何に多いかはご存じでしょう。 ウィキペディアが、著者に著作者人格権(著作者財産権はないが)を付与していることは、著作者が自分の判断で記事を著作することを認めていると解釈しています(他人の著作権を侵害せず、独自研究に陥らず、怪しげな出典からも真実を抽出し著作する能力が著作者には必要)。 新聞記事だって間違いが多いことは皆さんご存じの筈。学術論文だって後になって間違いとわかり、どれほど訂正されてきたか。機械的にどの出典は怪しげだからダメとか云う単純な理由で、他人のウキペディア著作を切り捨てるのは、ウィキペディア辞典のために良くない。修正する著者は、単純な理由で他人の著作を切り捨てず、しっかり調査して追加修正すべき。--金銀蝋 2009年8月22日 (土) 04:09 (UTC)[返信]

気になったのですが金銀蝋さんの言う「真実」とはどんなものでしょうか。極端に言えば、ある一つの「事実」に関して、場合によっては人の数だけ「真実」が存在し、更にその「真実」のそれぞれについて第三者から見た「真実」が存在し、更に……ということもあり得るわけですが、そのあたりは考慮されているでしょうか。
内容が矛盾しているという具体例をいくつか挙げていただけますか。「如何に多いか」とコメントするからには、具体的にどこがどのように矛盾しているかを列挙するぐらい容易いことでしょう。
新聞記事や学術論文を引き合いに出してらっしゃいますが、その「間違い」はどうやって世に知られたのでしょうか。恐らく別の新聞記事や新たな学術論文等だと思いますが、では、それらに「間違い」がないことは保証されているのでしょうか。保証されていないにもかかわらずそれらを「真実」であるとするのなら、その根拠は何でしょうか。
まあ、実際のところ上記にいちいち回答することは要求しません。結局のところ、方針がおかしいと主張するなら、その方針について十分に理解していなければならないのではないか? と言いたいだけです。ついでに言うなら「Wikipediaは真実を探求する場ではないので、そういうことがやりたければ他でやってください」というところですね。-- 2009年8月22日 (土) 05:49 (UTC)[返信]

郁さん、貴重なご助言有り難うございました。あなたの言う真実も出典の数だけあり、その真贋を見抜く目が著作者にも求められると云うことです。 具体例を挙げよとのことなのでいくつかを・・・。 NHKによるとアルシノエ4世の死亡時年齢が16歳だそうですが、16歳なんてありえないので疑問符を付けました。これは独自研究ですかね。 また、浅井長政の長男の生母が織田お市なんて記事がありましたが、結婚4年前に産んだんですかね。何時までも放置で見苦しかったので修正しましたが。これ以外にも、一目見て噴飯ものの記事が何時までも放置されています。修正したら出典不備とか独自研究とか云われてうんざりです。方針を四角四面に解釈して折角の内容を削除するよりも、各著者がそれぞれ記事の中身をチェックしてノートで議論し記事内容の充実を図る方がずっとウィキペディアのためになります。 これ以上云うとまたお決まりの「Wikipediaは真実を探求する場ではないので、そういうことがやりたければ他でやってください」と言われるので、それではこの辺でさようなら--金銀蝋 2009年8月22日 (土) 09:16 (UTC)。追加しました--金銀蝋 2009年8月22日 (土) 22:54 (UTC)[返信]

そもそも出典ごとに異なる「真実」があったとして、どんな問題があるのでしょうか。それが信頼できる情報源であるなら、その出典における「真実」という「検証可能な事実」を紹介するだけのことです。金銀蝋さんは真贋にこだわっておられるようですが、まるで貴方にはその真贋を見抜く能力があると主張しているかのようです。仮にそのような主張だとすれば、それ(真贋を見抜く能力があること)をどうやって証明します? 証明なしに特定の出典における「真実」の真贋を編集者が判定することは、独自研究に過ぎません。
なお、挙げられた事例は「矛盾した」例として適当ではありません。アルシノエ4世は放送事実と通説との乖離を「矛盾」と呼んでいるだけ。浅井万福丸は社会的に妊娠・出産が可能かと言う点と、生物として妊娠・出産が可能かという点は直結しない。(個々の事例については以後私の会話ページにお願いします)-- 2009年8月23日 (日) 08:44 (UTC)[返信]

本題とずれて来ているようなので、もう止めましょう。--金銀蝋 2009年8月23日 (日) 09:55 (UTC)[返信]