Wikipedia:井戸端/subj/出典はどこまで明記すべきか?

出典はどこまで明記すべきか?[編集]

WP:Vに、記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきですと書いてあるのですが、これはどこまで出典を明記する必要があるのでしょうか。

検証可能性の観点からすれば、書かれてある情報全てに必要のように思うのですが、そうしてしまうと、「1行1行に出典脚注がついてしまって非常に見づらい」ように感じるのも事実です。個人的には、WP:Vはウィキペディアにおいて非常に重要な方針であると思うので、多少見づらさを犠牲にしても、出典はできるだけ書く必要があると思うのですが・・・。

現在、私が関わっている問題でこれについての反対意見(私とは違う見解?)が出されたので、みなさんの見解、あるいはコミュニティ全体で出た結論をお聞きできればと思います。また、出典を示す際に見づらくならないような知恵がもしあれば教えてください。--青子守歌 2007年11月1日 (木) 19:38 (UTC)[返信]

できればすべて。これでも見にくいかな?--Ks aka 98 2007年11月1日 (木) 19:40 (UTC)[返信]
同じく日本語の項目など。少なくとも、日付が指定できるような具体的な話題は、出来るだけ出典が必要と考えます。生年月日とかさすがに記載するのは変かもしれませんが、確認できるものを参考文献であげておく必要はあると考えます。--ゆきち 2007年11月2日 (金) 03:18 (UTC)[返信]
青子守歌さんの投稿記録を見るとWORKING!! (WEB版)の事でしょうか? フィクションの記事において、作品内に書かれている内容についての出典は不要でしょう。その作品自体が出典になる事は自明ですので。--Kickaha 2007年11月2日 (金) 06:17 (UTC)[返信]
「フィクション作品内のことでは必要ない」というご指摘をいただきましたが、しかしそうなると、『前の版では書いてあったが、今手に入る版では書いてない内容』といったようなものが出てきた場合困ると思うのですが・・・。--青子守歌 2007年11月2日 (金) 07:20 (UTC)[返信]
青子守歌さんの「1行1行に出典がついてしまって非常に見づらい」というご意見がありますが、これは「1行1行に脚注がついてしまって」の誤りではないですか?
  • 「出典」とは、その文章の所である籍、すなわち「情報源そのもの」のことを指します。
  • 「脚注」とは出典などを明記する書式の一種を指します。
1行1行に出典が必要なのは検証可能性の観点から当然ですが、1行1行に脚注が必要であるとの明確なきまりや合意はありません。チンドン屋のようにがっちり脚注をつけて出典を明記する方法もあれば、大友皇子即位説のようにまとめて出典を明記する方法もあります。これは各分野の通例となる出典の明記方法が異なるためです。私の場合は、異論が出やすそうな箇所についてはあらかじめ脚注を使用しています。「前の版では書いてあったが、今手に入る版では書いてない内容」などは論争になりやすい箇所だと思いますので、余分な議論を引き起こす前に、第何版に記されていたものなのかを脚注で示しておいた方が無難かと思います。--ZERO 2007年11月2日 (金) 08:41 (UTC)[返信]
そうですね。「出典」ではなく「脚注」の間違いでしたね。上の発言訂正しておきます。大友皇子即位説見させていただきました。実世界において、私が論文を書くときは脚注を使った例のようにしなければならないと言われていたので、このような書き方は個人的にどうなのかとは思いますが、しかし秀逸な記事にも選ばれている項目ですからこのような書き方でもよいという一例だと受け取りました。このような書き方の場合は「この項目に書かれている情報は、参考文献リストに載っている書籍のうちどれかのどこかが出典となる」という解釈でいいのでしょうか。--青子守歌 2007年11月2日 (金) 10:07 (UTC)[返信]
青子守歌さんのように出典について真面目に考えてくれる人が増えてくれると嬉しいですね。さて、私は何かの資料を使って調べて記事を書いたときはそれを逐一出典を示すようにしています(日本語の出典をほとんど示せないのが心苦しいところですが)。検証可能性はもちろんのことなんですが、後で自分で書いた記事を読み返して「あれ?これはどこで調べたんだっけかな?」と思うことも結構あるからです。
それから、誰でも書き加えられるというウィキペディアの性質を考えると、できるだけ1行1行に出典があるのが好ましいと考えます。記事の最後にまとめて参考文献を列記すると、記事のどの部分をその文献で調べたのかがわかりにくくなってしまい、他の人が書き加えるときにせっかく文献で調べた大事な部分を書き潰してしまう可能性もあるからです。履歴を調べればわかる、と言ってしまえばそれまでですが、そこまでしなくても出典が対応づけられていた方が無難だと思っています。
あと、フィクションを取り扱うときには出典が必要ないのではなく、むしろ「読めば(観れば)わかる」ことは書かなくもいいのではないかな、と個人的には思っています。ところが、登場人物の名前などで「~が由来と思われる」のような単なる予測の域を出ない曖昧な書き方も非常に多いので、こういったものは書かないか、出典を明記すべきですね。フィクションの記事では、「グローリー (映画)」や「硫黄島からの手紙」のように史実との比較(出典が少ないのが残念ですが…)や普通に鑑賞してもわからないこと、専門家の視点で見たときにどういった評価があるのか、世間一般の評価や影響はどうなのか、のほうが大事だと思っています。こういうのには出典が当然必要になってきます。--Balmung0731 2007年11月2日 (金) 10:56 (UTC)[返信]
版によって内容が変わった場合には、例えば「A版ではxだが、B版ではyである」と記述する事になるでしょう(この例では改めて脚注をつける必要はありません)。その「版毎の相違」について項目を立てて記述した方が良い場合もあるでしょう。新版が出る事自体が論述すべき事柄ですので、その時点で検討すれば良いと思います。・・・考えている内に例外を思い付きました。宇宙英雄ペリー・ローダンでは、作品の何処に書いてある事かわかるようにして欲しいですね。しかし通常のフィクションの記事では、作品を読めばわかる事に出典をつける必要はないでしょう。--Kickaha 2007年11月2日 (金) 13:24 (UTC)[返信]
様々な意見ありがとうございます。Balmung0731さんが言われるように「あれ?これはどこで調べたんだっけかな?」と思うようなことを避けるため、本来はその情報が「どの文献」の「どの箇所」がソースなのか指定する必要があるかと思います。みなさんの意見を聞いていると、なんらかの作品の記事については「その記事になっている作品以外からの出典」については「どの文献のどこに」というのが必要というのは明らかですが、「その記事になっている作品」からの出典では箇所の指定まではあまり必要でないという感じだと受け止めました。--青子守歌 2007年11月3日 (土) 11:59 (UTC)[返信]
(追記)ところで、今回は井戸端での話になりましたが、通常このような話はどこですればいいのでしょうか?WP:CSがそれっぽいですが、ここは出典の書き方についてのようですし、かといってWP:Vというのも変な気がしますが・・・。--青子守歌 2007年11月3日 (土) 12:05 (UTC)[返信]

いちいち脚注を付けていくのが忌諱される要因って、「文中に上付文字が何個もあると行間が開いて見づらくなる」ことに尽きるんじゃないですかね。まあ、見栄えの問題は各自で対応すればいいだけの話でもあるんですが……(余談、ブラウザのデフォルトフォントをPゴシックからメイリオに変えたらいい感じになりました)--meekcharat 2007年11月3日 (土) 13:07 (UTC)[返信]

私はユーザースタイルシート
sup { font-size: .9em; vertical-align: .4em; }
sub { font-size: .9em; vertical-align: -.3em; }
を追加し、上付き・下付き文字を小さくしています。--Calvero 2007年11月3日 (土) 13:38 (UTC)[返信]

ちょっと疑問に思ったので質問させて頂きますが、出典を明記する必要があるといって出典を表記したとしても、出典が著作権物だったとしたら著作権の侵害になりませんでしょうか?

出典は恐らく何かしらの媒体(新聞・書物・インターネット・メディア)となりますがそこから出典を取ったとなればその著作権を侵害するものになると思うのですが考え過ぎなのでしょうか?

また出典を作るもの人間です。出典が間違っている場合・更新されていない場合で、(独自調査に触れますが)実際に調べたら出典は間違っており更に何処にも出典は無く、それを正したら要出典にされるのはおかしいのと思うのですが・・・。

記事に100%の出典を求めたらWikipediaがメディア等の媒体と情報が変わらない既成事実が入り込んだ百科事典になりそうな気がします。Gnsin 2007年11月5日 (月) 13:17 (UTC)[返信]

どもども。

  • そこにある表現を、そのまま写したりすれば、著作権の侵害です。しかし、事実やアイディアは、著作権法の保護の対象にはなりません。出典を示すことは、元の著作権者への敬意を示すことでもあるのです。
  • 「実際に調べた」というのが、どういうものか、もう少し具体的に例示してみてもらえますか。自分で調べたほうが間違っている場合もあるでしょう。明らかに正誤の判断ができるのなら、その判断の元となるものが、どこかに検証可能な形で存在しているはずではないかと思います。
  • さまざまな資料を調べ、膨大な情報の中から、もっとも信頼ができるものを抽出し、誰にでも開かれ、わかりやすく書かれたものであれば、他のメディアとは異なるものになるでしょう。--Ks aka 98 2007年11月5日 (月) 13:33 (UTC)[返信]
>そこにある表現を、そのまま写したりすれば、著作権の侵害です
それは移した側の解釈だと思いますが・・・著作権物なら著作権者側に意思の確認をする必要があるのでは?転用されたと言われたら何もかもおしまいな気がします。著作権者の考えも千差万別だと思いますので・・・考え過ぎかな?
>具体的に例示してみてもらえますか。
私が指摘されたことは商業施設の名称に関しての件、公式ホームページではAだが現地ではBの名前だった事(原因は公式ホームページが更新されていなかった・おまけに出典は無し)。
もうひとつ某鉄道路線の開業後の有料駐輪場に関する問題、出典は何処にもありませんが団体が撲滅運動をしたり・私も何百回も目の辺りにしています。どうも考え過ぎなのかと思いますが宜しくお願い致します。Gnsin 2007年11月5日 (月) 13:50 (UTC)[返信]

著作物というのは、「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(第二条一)です。思想又は感情や事実は保護の対象となる著作物にはなりません。[1]あたりは、判例を挙げて説明しています。著作権者の権利は、まったくすべてに及ぶわけではありません。というと誤解を受ける可能性もあるので、福井健策著『著作権とは何か-文化と創造のゆくえ-』(集英社新書 0294)か岡本薫著『著作権の考え方』(岩波新書 新赤版 869)でも読んでみてください。新書で比較的わかりやすいと思います。気合いを入れるなら、中山信弘著『著作権法』というのが最近出ました。先週amazonで注文したけどまだこない。

商業施設がもめてたのは見覚えがあります。あれは施設と店舗の捩れかなという気配もありますが、時間が経てば解決するようなことだったり、より細かな情報を得られる資料を探すしかなかったりするのではないかと思います。どっちが正しいかわからないなら、将来的な移動も考えに入れつつ暫定的な記述をするか、不確かだから掲載しないということにしかならないと思います。また「団体が撲滅運動をしたり」というのは、ビラなり市民だよりの類なり、市議会の議事録や市議会議員のホームページなどでも見つかる可能性はあります。一地域の商業施設一店舗や、小さな駅の小さな運動で、有益な出典が見つからないような場合は、百科事典に載せるほどのものではないということでしょうし、出典が見つけられないならば、見つけられる誰かが書くのを待ちましょうということかと思います。--Ks aka 98 2007年11月5日 (月) 20:06 (UTC)[返信]

誰でも編集可能なwikipediaの特性上、1行1注釈と言うの理想としては目指すべきものでしょうが現実問題としてかなり難しいと思います。
なぜならば、仮にある編集者がある文章に基づいてwikipediaを編集しその1行に注釈をひとつ付けたとします。一般の論文であればこの時点でこの文章の執筆は終了し、今後その文章は編集されることはありません。したがって執筆者の意図と注釈は完全に一致しているとみなすことが可能と思われます。しかし、wikipediaはその後、誰がどのようにその文章を編集していくか分かりません。別の人が前の編集者が書いた1行を編集した時にその文章を編集するときに前の編集者がその1行に注釈を付けた参考文献とは異なって文献に基づいてその1行を編集したとき、その編集者が前の編集者が参考にした文献に明るくない限り前の注釈の扱いに困ってしまうと思います。仮に前の注釈を残していくようにしたとして、その1行には新たに注釈がもう1つ付くわけで、異なる文献に基づいた編集が繰り返されていくたびに注釈は無尽蔵に増えていってしまうと思います。また、編集が繰り返されていく中で最初の注釈がその1行に反映されない状態になってしまう可能性もあります。誰かその分野のすべての文献に明るい編集者がいれば整理も可能でしょうが現実問題とし難しいと思います。また、1行編集するごとに前の注釈を削除して新たな注釈を書き加える方法でも、その編集された文章が全面的に書き換えられていない限り前の注釈も本来的には生きているはずです。しかし、その判断も前述の通り前の注釈で用いられている文献に明るくないと不可能なことであり、不特定多数の編集者によって構成されているwikipediaにおいては難しいことだと思います。万が一、その分野に関する文献すべてに明るい人がいたとして、注釈すべてを整理したとしてもそれを確認する術がないので大幅編集の場合荒らしとも受け取られかねません。
大局的に見たときには1行1注釈よりも、記事の最後にある参考文献を充実させるべきだと思います。1行1行に対応する注釈よりも参考文献のほうが柔軟性があり、確かにその記事に関係のある文献であれば、記事がどんなに編集されたとしても参考文献たる要項は満たしていると思われるからです。後はカギカッコ括りの引用はできる限り出典を記すようにするのが現実的かと思います。
話は若干変わりますが、注釈があると見にくくなるのはwikipediaがbrowserで表示される百科事典だからではないでしょうか?紙の論文であればレイアウトは一定で、注釈は各ページの最下部か文章の最後にまとめてだと思います。各ページの最下部であれば参照するのも簡単なのはもちろんですが、紙だったら文章の最後にあったとしても付箋でも貼っておけばすぐに参照できます。一方でbrowserで表示されているwikipediaは通常、記事の最下部に注釈がまとめて付けられており、browserを多重起動するか、分割表示でもしなければなかなか参照しにくいせいだと思います。これは各項目の長さが一定していないので各項目のの下に各項目の参照を付けてやっても、注釈を本文が同時に表示される保障はない点から同じだと思います。
かなり否定的な意見ですみません。基本的に1行1注釈の精神には賛成なのですが、如何せん現実的でない上、注釈が必ず必要になったら前記のような編集の負担や問題が発生してくると思ってこのような意見を述べさせていただきました。--Kobamao 2007年11月23日 (金) 15:28 (UTC)[返信]

こんにちは。ある記述について、異なる文献を参照しているとしましょう。仮に二つ、としますね。

出典としての優劣というのは、いちおうあります。同じ本の改訂であれば、新しい方を残すという判断はあるでしょう。一方が学術書、他方が初学者向けの読み物ならば、学術書を残せばいいと思います。これくらいなら、本そのものを確認しないでも整理できると思います。

その内容を専門に扱っている信頼できる出典が複数ある場合は、すべてが書かれていることが望ましいかと思います。たとえば、著作権法についてなら、中山、加戸、田村、半戸、作花といったものそれぞれの対応するページがあることが望まれます。これらが並んでいれば、実際に確認していなくても、「多くの解説書はこの解釈を取る。中山p.xxx、加戸p.xxx…」と整理できます。また、あまり研究が進んでいない分野や、学際的な考察を必要とする項目であれば、異なる主題の書籍を出典とする場合もあるでしょう。これもまた、双方を記述しておく必要があります。

出典が付いたある記述を編集しようとする場合、その記述と手元にある資料が同じ内容であれば、上のように対処することが出来ます。異なっていれば、なんらかの記述上の工夫が、自然と編集者に求められます。信頼できそうな出典を採用し、脚注で「なお、○○では「ほげほげ」とされる」と書くなど。百科事典としての正確さという観点からは、このような編集は望ましいものと言えるでしょう。

百科事典の執筆ということを考えると、たとえ非専門家が執筆するのだとしても、当該項目に直接関係する主要な文献は、ひととおり目を通すことが望ましいでしょう。調べ物をする側からしても、ある記述についてもっと詳しく調べたいと思った時に、ページ数も、求めている記述がその本にあるのかどうかも分からない「参考文献」を片っ端から当たるというのは、あまりにハードルが高いです。

実際に資料が手元にあるなら、脚注(かどうかはともかく)で、個々の記述に対して、個々の情報源を付加していくことは、面倒といってもたかがしれていると思うのですね。参考文献の一覧から、ある記述の情報源となる記述を探す労力というのは、とてつもないものなのですよ。

なお、本文中の脚注番号、脚注の「^」をクリックすると、自動的にページを上下することが出来ます。慣れにもよりますが、ふせんと同程度には参照は容易だと思いますが…。--Ks aka 98 2007年11月24日 (土) 09:03 (UTC)[返信]